世異則事異

大学院生 読んだ文献のメモとか

政治は象徴をめぐる闘争である/ブルデュー「政治界」

ブルデュー,ピエール,2003,「政治界」『政治──政治学から「政治界」の科学へ』藤原書店

 

 ブルデューといえば社会階層と趣味との関係を論じた学者として知られているが、近年では彼の理論や概念を政治社会学に使う研究者が増えているらしい。ブルデュー自身も政治にかなり関心を持っていたから、彼自身も自分の概念を用いて近代国家の形成とか現代政治の諸問題とかについてあれこれ論じていたという。で、この本に収録されてるのは彼が1999年にリヨン大学で行った講演。ブルデューの本は(現代フランスの学者の大勢と同様)やたら難しい文章で困るけど、これは流石に講演の記録なだけあって比較的読みやすい。だから、ブルデューの政治社会学について知るにはまずこれがいいかなあと思って読んでみた。

 以下は抜き書き。

 

 政治界というのは、アクセスの条件を満たした一部の人々が他の人々は排除されている特殊なゲームを演ずる場である、ということです。政治の世界は排除の上に、剥奪の上に成り立っているということを知っておくことは大切です。政治界が形成されていくにつれて、自律化するにつれて、それはますます職業化します……政治家だけが政治を語る能力=権限……を持っている。政治を語ることは彼らに所属する。政治は彼らに所属する。これが政治界の存在の中に書き込まれている暗黙の命題です(pp. 78-80)。

 

 「私はあなたのために働きます」……と[政治家が]言うことは「私は、あなたがそうであれと私に言う、そういう人間にほかなりません」と言うのと同じことです。「私はあなたの代弁者です」、「私には自分を表現することに利益はありません」……と言うのと同じことです。その反対に、政治界というものがあると主張することは、政治界の中にいる者は彼に投票した者たちとの直接的関係によってではなく、界の他のメンバーとの関係によって決定されることを言ったり行ったりすることがある、ということを指摘することです。政治家が何か──たとえば治安や非行についての意見──を言うのは、国民一般の期待に応える、あるいは彼に投票した、彼を受任者として指名した人々の期待に応えるためでもなく、界の他のメンバーが言うこと言わないこと、することしないことを参照しつつ、自分を差異化するため、あるいは逆に、自分が獲得する代表性の外観を脅かしかねない位置を占有するためです。……政治家が行うことを理解するためには、誰が彼に投票したか、彼の選挙基盤は何か、彼の社会的出自は何かを調べる必要があるのはもちろんですが、同時に、彼が政治界というミクロコスモスの中で占める位置を調べなければなりません。彼の行動の大半を説明するのはこの位置なのです(pp. 82-83)。

 

 政治界は自律的であるということ、政治界には固有の論理があり、この論理が界に参画しれいる者たちの立場選択を決めるということは、委任者の利害に自動的に還元することはできない界に特有の政治的利害があるということを含意しています。同じ党に属する者たちとの関係で、あるいは他の党の者たちとの対立の中で定義される利害です。界として機能するために閉鎖効果が発生します。この観察可能な効果は次のような過程です。つまり、政治空間は自律化するにつれて、固有の論理によって進むようになる、界に内在的な利害に従って機能するようになる、そしてノン・プロとの断絶が深まる、という過程です(pp. 83-84)。

 

 このように自律性が高まる(つまり断絶が深刻になる)理由の一つは、界が「界固有のゲームの勘(センス)の生産と発揮の場である」ことにある(p. 84)。それぞれの界には暗黙のルールがある。政治の界でいえば、そこへの参加者はみんな「型にはまった言語、コツ、力関係、政敵との付き合い方」を学ばないといけない(p. 85)。

 そういう固有のルールに政治家みんなが従う(ということはそのルールが再生産される)ことで、政治界の閉鎖性(自律性)が高まる。これは、芸術界がどうしようもなく閉鎖的になってしまったのと同じ話だ。前衛絵画のような界では、展覧会に来るのがもはや同業者ばかりだということになっているらしい(p. 86)。でも、政治界は芸術界と違って極度の閉鎖性を得ることはない。一応、形式的には民衆の声を代弁してるということになってるわけだから、「ノン・プロの審判に晒されている」という面もある。政治界の場合は、「ノン・プロがプロ、界の成員の間の闘争において勝敗を決する」(p. 90)。

 政治界には誰が属しているのか? 「ある行為者がある界の中にいるかどうかは、彼が界の現状を変えるかどうか(あるいは彼を排除したら界の様相が変わるかどうか)で分かります」(p. 88)。例えば、フランスの国民戦線(パパの方のルペンが党首をやってた頃だ)は政治界の行為者とみなしうるが、それはあの党が政治界に持ち込んできた諸問題についてこの界における他の行為者たちまで配慮しないといけなくなったからだ。つまり、フランス人/外国人という対立軸が持ち込まれ、いつの間にか誰にとっても無視できない論点になって、富裕層/貧困層という対立軸にほとんど取って代わったわけだ。

 界は自律的で閉鎖的であるとはいえ、界の境界は常に安定しているわけではない。「界への新参入者が界への所属原理を変革する結果、これまで界に所属していた者が所属しなくなり、所属していなかった者が所属するようになる事態」が起きうるという。これは「パラダイムの変換」であり、界の境界の変動である。芸術界においてマネが起こした「印象派革命」はまさにそういう現象だ──「規範(ノモス)の所有者、基本的法の所有者が突如として失格し、異端者が是認され正統化される」(p. 89)。

 では、政治界においてはどんな「パラダイムの変換」がありうるか? 政治闘争は、「正しい」ものの見方・分け方をめぐる闘争だ。さっきの国民戦線の例で考えてみよう。従来の政治界では、政治における主要な分け方とは富裕層と貧困層の区分だ、という見方が前提になっていた。その前提を共有する人だけが政治界にいたのであって、その前提を支持するということは界への所属原理であったともいえる。そこに国民戦線の連中が入り込んできて、フランス人/外国人という区分を持ってきた。そうすると、立場はどうあれ、もはや経済格差だけの話しかできない政治家も政党も人気を失っていくことになる。別にルペンみたいなのに同調する必要はないけど、例えば移民問題に関して何らかのビジョンを示すことができないといけなくなる。それができない政党は「失格」というわけだ。そして、右派の政党は、移民問題に深い懸念を抱く有権者たちを多く動員できるようになる。こうして、政治界の境界が変動するのであり、つまり勢力の構図が変わる。

 

 政治は観念をめぐる、特殊なタイプの観念、すなわち観念=力idées-forces、動員力として機能することによって力を与える観念をめぐる闘争です。私の提唱する分け方の原理が万人によって認められれば、私のノモスが普遍的ノモスになれば……私は私の見方を分け持つ人々の一大勢力を背後に従えることになるでしょう(p. 90)。

 

 でも、政治界パラダイム変換はもちろん左翼の側からも起きる。ブルデューに言わせれば、あの「万国の労働者、団結せよ!」というスローガンも、「国を越えて富裕層と貧困層を対立させる国際的な分け方の原理の方が国と国とを対立させる分け方の原理よりも重要であることを述べた政治的宣言」だということになる(pp. 90-91)

 

 「宗教財」をめぐるヴェーバーの議論を踏まえて、ブルデューはこうも言っている。「政治闘争は政治責任者間の闘争です。しかし、この闘争において互いに敵対する者たちは、政治財の正統な独占的操作権をめぐって競争関係にあるわけですが、国家に対する権力を争点として持っている点では共通しています」(p. 91)。

 

 「それぞれ特殊な資本が界に結びついており、その資本はそれが通用する界の境界と同じ価値・効力の境界を持っています」(p. 91)。これはブルデュー理論の基本で、政治界にも独自の資本があるということになる。つまり「政治資本」だ。「政治資本は……評判資本、どう見られているかという問題と結びついた象徴資本です」(p. 92)。

 現代では、政治家の持つ政治資本は、政党によってもたらされる。ブルデューは政党の役割をかなり大きく見ている。「政治家の政治資本は第一義的に彼の党の政治的重み、そして党内におけるその政治家の重みに左右されるようになったのです……今日では、党はいわば銀行、政治資本の銀行で、党首はその銀行の頭取……です。官僚制化された、官僚的な、党官僚集団によって官僚的に保証された政治資本へのアクセスを掌握する頭取なのです(p. 93)」。

 だから、政治家は政党に強く依存している。政治家は、宗教界における献身者(オブラ、oblats)に似ている・・・「オブラ」っていうのは、貧しい家族が教会に献じた息子のことらしい。オブラたちは、教会によって全てを与えられた人々であるから、誰よりも教会に対して忠実に行動した(教会を離れれば、彼らは何物でもなくなってしまう)。政治界でも同じようなことがあって、例えば(おそらくフランスの)共産党は特にこのモデルを実行してきた──「党官僚は彼らの一切の正統性、一切の権力を党の信認から得ているがゆえに、完全な保証のある者たちなのです。党から信認を剥奪されれば彼らはゼロです。だからこそ除名は悲劇になるのです。除名は破門と同じです」(pp. 93-94)。

 

 政治界に特殊的な政治的利益と政党への所属との結びつきは次第に強くなります。同時にこの利害と、政党の再生産との、および政党が保証する再生産との結びつきが強くなります。政治家が行う行動の大きな部分はもっぱら、党機関を再生産することと、彼らの再生産を保証する党機関を再生産することによって政治家を再生産することを目的とした行動です(p. 94)

 

 ここでも宗教界と政治界とのアナロジーが出てくる。フランスの教会はカトリック私立学校の補助金獲得にかなりの力を注いでいる。これは結局、「教会がなくなったら自分の仕事と存在理由がなくなってしまう人々」(p. 95)の数をできるだけ多く保ちたいからだ。だから、教会の真の影響力はミサに来る人々の数ではなくて、教会関連の施設の多さとか、それによるポストの数とかに現れるわけだ。

 これは政党の場合でも同じで、つまり政党が存続できるのは、その政党がなくなれば仕事を失う人々がいるから。「政治的行動の大きな部分は党機関メンバーの政治的存在を保証する党機関を再生産する目的が動機になっています」( p.95)。

 「政治界は社会世界の見方・分け方原理を正統なものと認めさせることを争点とするゲームとして記述できる……政治ゲームの争点は他の仕方で見る・信ずるようにさせる力を独占することです。宗教界のアナロジーがこんなにも有効なのはそのためです。正統と異端の間の闘争なのです」(pp. 95-96)。

 

 政治界の閉鎖性についての議論において、ポピュリズムはどう位置づけられる?

 

 今日、政治的な争点のひとつは、まさしく政治界の境界線をめぐる闘争です。政治界の定義を拡張しようとする闘争が存在するのですが、それはすぐにポピュリスムとして非難されます。この侮辱は大変重たい意味を持っています。それは人種差別主義者を名指すための婉曲語法だからです。ところで、そうした闘争の発想源は政治界の閉鎖に対する反抗、その厳格な定義に対する反抗に存するのであって、政治界を広げるために闘っているのです。難問のひとつは、政治的分業をいかに変容させれば政治システムへのアクセスが拡大され、より多くの人々が政治界に影響を行使できるようになるのかを知ることです(p. 105)。

 

 ここからは、ブルデューポピュリズムに対してどのような評価を下していたかははっきりしない。何にせよ政治界が閉鎖的になりすぎるのはよくないわけで、彼自身も一般人の政治参加についてあれこれ考えていたことは分かる。ポピュリズムにしても閉鎖的になった政治界への異議申し立てで、「パラダイム変換」の試みだともいえる。国民戦線のそれはある程度成功した。フランスにおいてポピュリズムという言葉が専らルペン流(それもパパの方)の排外主義みたいなイデオロギーを意味するのであれば、彼はもちろんそれに与するつもりは全くなかっただろう。でも、確かに欧州におけるポピュリズムといえばだいたいはそういう右派なのだけど、ラテンアメリカでは左派ポピュリズムの方が根強いし、アメリカでもバーニーが出てきた。ブルデューならそういう左派ポピュリズムをどう評価しただろうか? まあ理論的にはどうだっていい話だけど……。

 

 一読して思ったのは、ブルデューのいう政治界がほとんど議会政治の界である、つまり政治家の界であるということだ。ポピュリズムにしたって議会政治の枠内での運動なわけだし。いわゆる「サブ政治」なんかは、とりあえず政治界の外の話ということになるんだろう。でも、いくらかの国々における同性婚の法制化がそうだったように、政治的変化のなかには議会政治(つまりブルデューが論じる政治界)をあまり介さずに成し遂げられるものもある。そういう現象については、「司法界」とか「行政界」という語によって論じるべきなのかもしれない。ともかく、ブルデューの冷徹な議論はなかなか面白い。この辺の話題に関して彼が書いたものをもう少し色々読んでみることにしよう。