世異則事異

読んだ文献の感想・ニュースのクリップ・考えたことの覚え書き等

EU司法裁判所がハンガリーの反LGBT法を批判

Human Rights Watch, 2026, "Hungary: Top EU Court Rules Anti-LGBT Law Unlawful." (https://www.hrw.org/news/2026/04/22/hungary-top-eu-court-rules-anti-lgbt-law-unlawful)

 

 オルバーン時代に(特に2021年頃から)できたいわゆる反LGBT法とそれに基づく政策が、「EU法に反するもの」だという判決が、EU司法裁判所で出されたらしい。ハンガリー政治に詳しくないので何とも言えないけど、こういうEUからの圧力の影響で一連の政策が撤回されるのかもしれない。

 ただ、思い出す必要があるのは、2020年以前のハンガリーにおけるLGBTの権利の発展が、そもそもEUに入ることの影響により生じてきていたということだ。つまり、EU加盟国ならそれなりにリベラルな法制度を持つべき、という圧力があり、それによって変化が生じてきたのだった。これは新制度主義でいうnormative isomorphism(DiMaggio and Powell 1983)によって起きた変化なので、(オランダなんかの場合とは違って)国内におけるLGBTへの寛容な態度の形成により生じた現象ではない、とみなされている*1。確かに、世界価値観調査のデータを見てみれば、ハンガリー国民は同性愛者に対して西欧諸国の人々ほど寛容ではなく、国内には法制度のリベラル化の下地はあまりなかった(価値観のデータはグラフをつくるのがめんどくさいので省略)。だから、下記のグラフのように西欧・北欧諸国から数年遅れた形で発展してきたわけだ──もちろん、このグラフの続きを書くなら、2021年以降のハンガリーはかなり落ちることになる。

 

 

*1:「EU効果」についての文献:古いがBell, Mark, 1998, “Sexual Orientation and Anti-Discrimination Policy: The European Community,”  Terrell Carver, and Veronique Mottier (eds.,) Politics of Sexuality: Identity, Gender, Citizenship, London: Routledge, pp. 57–67. とくに東欧諸国のLGBの権利についてO’Dwyer, Conor, 2013, “Gay Rights and Political Homophobia in Postcommunist Europe: Is There an ‘EU Effect’?” Meredith Weiss and Michael Bosia (eds.,) Global Homophobia: States, Movements, and the Politics of Oppression, Chicago: University of Chicago Press, pp. 103–26. 僕はこの2本の論文を、Ferguson, Jason, 2022, "The Great Refusal: The West, the Rest, and the New Regulations on Homosexuality,1970–2015," American Journal of Sociology, 128(3): 680-727.で知った。

技術と文化はどちらのほうが伝播しやすいか

野田又夫,1966,『デカルト』岩波書店[岩波新書].

 

 ……を読んでいて、本筋とはあまり関係のないところが印象に残った。

 

 十九世紀以来、科学理論によって指導されている技術の大きな発展があったことについては、改めてのべる必要もないでありましょう。そしてそれは、文字通り世界的な伝播を示し、民族や文化圏の相違を貫いてひろがっています。科学と技術とが伝わるさまは、キリスト教が古代末のゲルマン世界に伝わったり、仏教が中世のシナに伝えられたり、日本の古代に受け入れられたりしたさまとは、非常に違うのであります。技術の伝播はイデオロギーの伝播の場合のように説得を必要としない。それは不可避性、普遍性をもっています。ここ百年あまりの間の化学と技術との伝播は、有史以前の青銅器や鉄器の伝播に似ていると言えます。科学や技術が主にヨーロッパ文化圏に生れたからといって、アジヤの文化圏において本質的にちがった形になるということはない。全く同じ化学、同じ技術が、効果をもつのであります(pp. 182-83)。

 

したがって、科学的な世界認識を切り開いたデカルトの問題意識は、現代では世界中の人間にとって向き合うべき課題となっている……というのが著者(野田)の話だが、それはまあ置いておこう。このくだりの注釈にて参照されているのはヤスパース『歴史の起源と目標』だが、そっちは未読(「枢軸時代」の概念で有名な本だというのはさすがに知っていて、読まなきゃいけないとは思っているのだけど、絶版のうえ中古でも絶望的に高価だ。こういうのを文庫本にしてほしい)。

 技術の方が文化よりも伝播しやすいという主張なら、社会学者にも見られる。僕が思い出したのは、富永健一による一連の近代化論の著作だ。富永は「社会的-文化的領域における近代化」を「自由・平等と合理主義の精神」の発展だとみなしているが*1、やはりこれは経済や政治の近代化よりも伝播が難しいものだとされる。

 

 ……社会的-文化的領域における価値は、経済的領域にくらべればもちろんのこと、政治的領域にくらべても、伝播可能性が最も低いと考えられる。なぜならそれらは、人びとの日常生活上の習慣的で変わりにくい事柄にかかわっているからである。もちろん文化的価値の中にも、伝播可能性の高いものから低いものまでいろいろの次元がある。科学的知識やテクノロジーは最も伝播可能性が高いが、本書では、テクノロジーおよびこれに応用されたものとしての科学は、産業主義の構成要素とみなして、経済的領域に位置づけた。これとは異なって、精神文化における価値は、伝播は不可能ではないとしても困難で、またそれを受容した場合に、国内にコンフリクトを生ずる可能性が大きいと考えられる*2

 ……西洋文明を技術面のみならず、精神面まで受け入れるとすると、じつはここに問題を生ずるのである。技術面においては、日本がはるかに後進的だったことは誰の目にも明らかだったから、西洋の進歩した技術を需要することからは、何らのコンフリクトも生まれなかった。……テクノロジーは普遍性をもっているので、伝播しやすく、また効率比較が一義的になされ得るからである。大久保利通をはじめとする明治藩閥政府の指導者たちは、西洋の技術や産業の移植に懸命であり、国民もまたそれらを受容するために熱心に努力した。これについては、問題がなかった。ところが、西洋文明の精神面を受容しようとすると、伝統日本において高度に発達してきた儒教的価値、とりわけ血縁集団としての「家」(イエ)の社会関係による拘束と、血縁集団としての「村」(自然村)の社会関係による拘束とが、これとコンフリクトする。なぜなら、これらの伝統的な社会関係は、近代西洋の自由・平等の理念と両立しないからである*3

 

つまり、技術には必然性と普遍性があるので受容が進みやすいが、文化は別に受け入れなくてもさしあたり困ることはない(むしろ従来の生活を混乱させる)わけだから、文化の伝播は遅れがち、というわけだ。だとすると、もし価値観の世界的な収斂の傾向が見られるとすれば、それは文化が直接に伝播した結果というよりも、各社会の経済的・政治的な条件によってそれぞれの社会が独立に価値観の変化を経験した結果だという可能性を疑った方がよいことになる。例えば、資本主義がより発展したために女性の労働力が必要となり、結果として男女平等に対する意識が改善されていく、といった変化があるかもしれない。これはかなり機能主義的な説明だ。

 本当に文化は技術よりも伝播しにくいのか、ということは考えてみる必要があると思う。この命題は面白いが、いかんせん抽象的だから、そのままデータで検証するのは難しいだろう*4。組織のレベルでいえば、むしろ技術よりも文化の方が先に伝播している例もあるような気もする。例えば、何かと意識高い言葉をまねて使ってみるわりに業務は案外旧態依然のままみたいな痛い企業のことがよく馬鹿にされたりする。そういう例は、たぶん新制度主義の伝播研究でよく分析されているのだろうけど、同じような話が国レベルのようなマクロ社会学のテーマでもできるかどうかはわからない。Strang and Meyer 1993とかは問題意識が近いと思うので、その辺の論文を復習してみよう。

*1:富永健一,1990,『日本の近代化と社会変動』講談社,p. 195.

*2:同上,pp. 201-2.

*3:同上,pp. 206-7.

*4:価値観の変化が経済的変化の帰結かどうかという命題なら、割と検証しやすい。例えば、クロスナショナルな分析をやるとして、経済的条件のような諸々の変数を統制した上で、文化のグローバル化に関する独立変数がそれぞれの国における価値観の変化に影響を与えているかどうかを見てみることはできるだろう。以前読んだRoberts 2019なんかは要するにそういう論文で、彼女は一人当たりGDPではなくグローバル化の程度の方が同性愛に対する寛容さをよく説明していると論じている。

デュルケムについての覚え書き①

 ジョナサン・ハイトは社会心理学の立場からデュルケムを高く評価している。彼は、社会の捉え方としてミル的なアプローチとデュルケム的なアプローチがあるとしている。ミルの見方は個人主義的であり、リベラルやリバタリアンに通じるものだ。それに対して、デュルケムの見方はいわゆる保守主義に近い:

 

デュルケムが理想とする社会は、各々の意のままに振舞わせておけば浅はかで動物的で利己的な快楽を追い求めてしまうような諸個人を社会化し、作りかえて、ケアする、そういう互いに包含したり一部が重複したりする多数の集団から成る安定したネットワークだといえる。デュルケム的な社会というのは、自己表現よりも自己制御を、権利よりも義務を、また外部集団への関心よりも自集団への忠誠を重んじるような社会なのだといえる*1

 

三点だけコメント:

 第一に、デュルケムの思想が保守主義寄りだというのには賛成*2。そもそも彼の社会学は、激しい政治変動を経た第三共和政のフランスに秩序を取り戻すことを目指していたと言われることもあって、その意味では「秩序と進歩」というコントのビジョンを受け継いでいるようにも見える。デュルケム自身、自分の実証主義的な「道徳の科学」(つまり社会学)が「賢明な保守的精神をわれわれに伝える」ものだと述べている*3。というのも、「道徳の科学」は既成の道徳に関するデータを帰納的に分析するものであって、また道徳的事実は「それが何かに役だつのでなければ、すなわち、何かの欲求に応ずるのでなければ、一般に持続しえないものである」。もちろん、既成の道徳が全て望ましいとは限らない。だが、たとえ望ましくない道徳的事実があったとしても、それを全て捨ててしまうのではなく修正し続けるというアプローチの方が正当だ。その修正のために、道徳の科学は役立つというわけだ──こうした書き方には、バーク流の保守主義に通じるところがあると思う。

 

 科学と道徳とを調和させるものは、道徳の科学である。これこそが、われわれに道徳的実在を尊重するように教えると同時に、これを改善する諸手段をも供するからである*4

 

 第二に、デュルケムが諸個人を「各々の意のままに振舞わせておけば浅はかで動物的で利己的な快楽を追い求めてしまうような」ものと見ていたとすれば──おそらくその通りだろうが──これは荀子の考え方にかなり近い。

 

 礼の起源はどういう点にあるか? それを論じよう。人間は生まれつき欲望を持っていて、欲望がとげられなければどうしてもそれを追求しないわけにはいかず、追求してそこにきまった範囲の規則分別がなければどうしても争わないわけにはいかない。[こうして]争いあえば社会は混乱し、結局ゆきづまっていくことになる。古代の聖王はその社会的混乱を憎んだのである。そこで礼儀すなわち社会規範を制定して分別づけ、それによって人々の欲望を養い人々の求めを満足させ、対象物[を奪いあってその不足]のために欲望のゆきづまることが決してなく、欲望[を放任した奪いあい]のために対象物のつきてしまうことが決してないようにして、欲望とその対象物とをたがいに平均してのばすようにしたのである。これが礼の発生した起点である*5

 

違いがあるとすれば、それは「聖王」が登場するかどうかというぐらいのものだ。荀子によれば、

 

そもそも礼儀というものは聖人の偽すなわちしわざにもとづいてできるのであって、もともと人の本性にもとづいてできるというものではないのである。[例えてみると、]もちろん陶工は粘土をこねて瓦をつくるのであるが、してみると瓦は陶工のしわざにもとづいてできるというものではない……[そうした例と同じように、]聖人は思慮を重ね多くのしわざをくりかえしたうえで、礼儀をつくりあげ法規を起すのであるから、してみると礼儀や法規というものは聖人のしわざにもとづいてできるのであって、もともと人の本性にもとづいてできるというものではないのである*6

 

 第三に、デュルケム的な社会が「自己表現よりも自己制御を重んじる」社会なのか、というのは少し疑問だ。というのも、彼はある種の道徳的個人主義の台頭を予期し、また個人的に支持してもいたからだ。それは、『社会分業論』における「人格への崇拝」の議論やドレフュス事件の頃の論文「個人主義と知識人」などに現れている。前者においては個人主義が社会の紐帯としては不十分だとされていたが、後者においてはある種の個人主義が「集団崇拝の機能的代替物であることをはっきりと認めるようになった*7」。

*1:Haidt, Jonathan, 2008, "What Makes People Vote Republican?" (https://www.edge.org/conversation/jonathan_haidt-what-makes-people-vote-republican). この論文は、その後の名著The Righteous Mind(邦訳『社会はなぜ左と右にわかれるのか』)でも引用されている(邦訳のpp.260-70.)

*2:デュルケムの保守的傾向についての基礎文献は、折原浩,1969,「デュルケーム社会学の『保守主義』的性格」『社会学評論』19(4): 2-20.

*3:デュルケーム,2017,『社会分業論』筑摩書房,p. 75.

*4:同上,pp. 75-76.

*5:金谷治(訳注),1962,『荀子(下)』岩波書店,p. 82.

*6:同上,p. 196.

*7:作田啓一,1983,『人類の知的遺産[57] デュルケーム』pp. 61-62.

統計検定2級に合格したよ

 統計検定の2級を受けて、合格した。記憶の薄れないうちに諸々のことを記録しておこうと思う。

 

 公式サイトによれば、2級の内容は「大学基礎課程(1・2年次学部共通)で習得すべきことについて」らしい。僕はいま大学院に在学しているわけなので、いくら文系で数学をサボってたとはいえこのレベルで落ちるわけにはいかない。だから、とりあえず合格できて安心。

 勉強していて分かったのだけど、2級のレベルでは数学の知識がほとんどいらなかった。微積は高校レベル(ⅡB並)でも十分だし、線形代数に関しては全く知らなくてもよさそう。僕は統計学といえば単位を取るために中心極限定理の証明に苦戦したのを思い出すのだけど、少なくとも2級の段階ではその辺の証明とか全然理解してなくてもいい。だから、僕みたいな数学音痴でも8割取れるわけだ。

 勉強期間は2か月ぐらいで、使った教材は主に以下のものだった:

 

(1)宮本翔太,2025,『この1冊で合格! 宮本翔太の統計検定Ⓡ2級 テキスト&問題集』KADOKAWA.

 最近出たらしいテキストで、とりあえずこれを一読したあと問題を解きはじめた。タイトル通り学術っぽさはまったくなく、いかにも資格試験のテキストという感じ。また2級の試験に特化してるため、数学的な負担もほぼ皆無。

 このテキストが良いのは2級の範囲を概ね網羅していることだ(たぶん)。ちょっと探してみたところ、同じカバー率のテキストといえば公式テキスト(『統計学基礎』東京図書)しかないみたいで、その公式テキストは明らかに説明がうまくない(ついでに言えば公式問題集の解説も同様に不親切だ)。それなので、1冊で全範囲をカバーしようとするならこのテキストがいいと思う。

 もっとも、(これは好みの問題なんだけど)文字がデカくて分厚いのが個人的に好きじゃないし、持ち運びにも適していない。なので、試験が近くなってきた頃には、覚えておきたい部分だけ書き写してまとめたルーズリーフをホッチキスでまとめて持ち歩いていた。

 

(2)白砂堤津耶,2015,『例題で学ぶ 初歩からの統計学[第二版]』日本評論社.

 (1)より先に買っていたもので、こちらもかなりお世話になった。標準偏差や分散から始まり、2級で重要になる母平均・母比率などの検定の問題を例題でみっちり勉強できる。ただし、2級で頻出な母平均の差のt検定──母分散が不明かつnが小さい場合にやるもので、(4)のpp. 116-17などにも出題されている──はなぜかカバーしてないので、(1)とかで勉強しておく必要がある。

 

(3)日本統計学会(編),2021,『統計検定2級公式問題集 2018~2021年』実務教育出版.

(4)日本統計学会(編),2023,『統計検定2級公式問題集 CBT対応版』実務教育出版.

 どちらも公式問題集で、当然念入りにやっておいた方がいい。(3)収録の2021年6月の問題はえらく難しいのでやらなくていいらしい(僕はやってない)。

 

 試験対策としてやったのは以上。ちなみに有名な東大出版会の『統計学入門』(通称『赤本』?)も持ってるけど、今回の対策にはあんまり使わなかった。あと、それ以前にもRのテキスト(今井耕介『社会科学のためのデータ分析入門』とか)とかその他もろもろの統計学のテキストに触れたことはあったので、それらの知識も役に立ったと思う。でも、分散分析とか正直あんまりよく理解してなかったし、これを機に勉強できてよかった。

 次はとりあえず準1級を取ろうと思うけど、流石に数学のウエイトが増してくるだろうから、これほど簡単にはいかないだろう。線形代数とかもう覚えてないよ……。

高島善哉『社会科学入門』

高島善哉,[1954]1964,『社会科学入門──新しい国民の見方考え方』岩波書店岩波新書].

 

 社会科学が国民のものとなるためには、私たち日本の社会科学者はもっと苦労してみなければならない。そのために私は社会科学のこれからの行き方として国民の社会科学という考え方をとった。それはこれからの日本国民の教養にとってなくてはならない社会科学という意味をもっていると同時に、新しい日本国民の育成のために役立つべき科学という意味をもっている。科学といえば自然科学のことだと思う時代はすぎた。社会科学こそ新しい日本国民の科学とならなければならない。私は本書が教養を求めるすべての日本国民によって読まれることを希望したい(p. ii)。

 

 敗戦後、おそらくまだ教養への情熱があったであろう1954年に書かれた本書は、上記のような素晴らしい意図のもと書かれたらしい。体制・階級・民族といった重要問題の分析が社会科学の関心ごとであることを踏まえ(第二章)、社会科学が近代ヨーロッパで市民社会と資本主義への反省・批判として台頭してきたことを論じる(第三章・第四章)。日本の文脈で社会科学がいかに重要か論じる──「体制と階級と民族とを統一的につかむことを教える」学問こそが、著者のいう「国民の社会科学」であり、それこそ「新しい日本国民の誕生」のために必要である、という*1(第五章)。

 印象深いのは、当時の知識人としては珍しいことでもなかっただろうが、著者が露骨に社会主義の立場を示していることだ*2。例えば、社会主義を単なるイデオロギーではなく、社会科学の一分野として堂々と扱っている。それに、社会主義諸国にも問題はあるけど概ね資本主義諸国より上手くやっている、というような書きぶりもある*3。まあ、本書が出たのは「スターリン批判」以前のことだし、「地上の楽園」への帰還事業が1959年に始まったこと──またそれを日本の左派エリートの多くが賞賛していたこと──を思えば、本書の見通しの甘さを批判しても仕方ないだろう。とはいえこの辺の時代遅れな記述は、本書が絶版になった理由の一つなのだろうなという気もした(僕が図書館で借りたのは1972年の第25刷で、かつては広く読まれた本のようだが、今では絶版。同じく古い岩波新書の本でも大塚久雄や内田義彦の本はいまだに本屋に並んでいる)。

 とはいえ、そもそもどうして社会科学が重要なのかという点を大真面目に語る本書のような姿勢は、巡り巡って再び重要になってきているのではないかという気もする。もちろん敗戦後と現在では状況がまるで違う。でも、政権の思いつきで研究予算がカットされたりといったことは日本でも起きたりするかもしれないわけで、いまどき社会科学に対する世の中の評判はあまり良いものではない。科学への健全ないし不健全な懐疑が強くなってきたことを思うと、むしろ社会科学の置かれる立場はさらに厳しくなっているのかもしれない。だから、社会科学者は自分たちの仕事を正当化していかないといけないんじゃないかな、と最近思っているのだけど、偉い先生たちはそういう話ってあまりしたがらない気がする(少なくとも社会学では)。そういう意味では、著者の意気込みには好感が持てる。著者による次のような記述が西洋中心的なうえ社会主義的で古臭く見えるにしても、その健全な精神は評価されるべきだと思う:

 

 市民革命は人間を絶対主義の桎梏から解放した。しかし資本主義の発展は、解放された人間を再び自己分裂と人間性喪失の危機のまえに立たせた。いかにして人間は再び救済されうるだろうか。この問題にたいする解答はけっして一つではないであろうが、現代の社会科学者はこれを社会科学的ヒューマニズムの道に見出そうとするのである(p. 178)。

 

 おまけ:巻末には「社会科学の代表作一〇〇点」として各分野の文献リストが挙げられているが、そこでも「社会主義」が独立の分野として設けられている。その一〇〇点というのは以下の通り(著者名と著作名の表記は一部変えた):

 

1.【政治学

マキアヴェリ君主論』(1532)

ボダン『共和国についての六扁』(1576)

ホッブズリヴァイアサン』(1651)

ロック『統治二論』(1690)

モンテスキュー『法の精神』(1748)

ルソー『人間不平等起源論』(1755)

ルソー『社会契約論』(1762)

ペイン『人間の諸権利』(1791)

トクヴィルアメリカのデモクラシー』(1835-40)

マルクスエンゲルス共産党宣言』(1848)

ブルンチュリ『近代国家論』(1852-75)

ミル『代議制統治論』(1861)

バジョット『イギリス国制論』(1867)

ウェッブ夫妻労働組合運動の歴史』(1894)

レーニン『国家と革命』(1917)

ラスキ『政治学大綱』(1925)

 

2.【法学】

グロティウス『戦争および平和の法』(1625)

モンテスキュー『法の精神』(1748)

ベッカリーア『犯罪と刑罰』(1764)

ベンサム『道徳および律法の諸原理序説』(1789)

サヴィニー『現代ローマ法体系』(1840-49)

メーン『古代法』(1861)

ギールケ『ドイツ団体法』(1868-1913)

イェーリング『権利のための闘争』(1872)

イェリネック『一般国家学』(1900)

ダイシー『19世紀イギリスにおける法と世論の関係についての諸講義』(1905)

デュギー『法と国家』(1917-18)

ヴィノグラードフ『法学入門』[原題『歴史法学概説』](1920-22)

パウンド『法と道徳』(1924)

ラートブルフ『法哲学』(1932)

 

3.【経済学】

ケネー『経済表』(1758、60、66)

スミス『国富論[諸国民の富]』(1776)

マルサス人口論』(1798)

リカード『経済学および課税の原理』(1817)

シスモンディ『経済学新原理』(1819)

リスト『政治経済学の国民的体系』(1841)

ミル『経済学原理』(1848)

マルクス資本論』(1867-94)

メンガー『国民経済学原理』(1871)

ワルラス『純粋経済学要論』(1874)

マーシャル『経済学原理』(1890)

マルクス剰余価値学説史』(1905-10)

シュンペーター理論経済学の本質と主要内容』(1908)

ヒルファーディング『金融資本論』(1910)

レーニン帝国主義』(1916)

ピグー厚生経済学』(1920)

ケインズ雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936)

 

4.【歴史学

モンテスキュー『法の精神』(1748)

ヒューム『イングランド史』(1754-57)

ヴォルテール『歴史の哲学』(1765)

メーザー『オスナブリュック史』(1768)

ギボン『ローマ帝国衰亡史』(1776-87)

ニーブール『ローマ史』(1811-32)

ギゾー『ヨーロッパ文明史』(1828)

ランケ『世界史概観』[原題:『近世史の諸時期について』](1854)

モムゼン『ローマ史』(1854-85)

ラムプレヒト『ドイツ史』(1891-1909)

ピレンヌ『ベルギーの歴史』(1900-32)

ドープシュ『ヨーロッパ文化発展の経済的および社会的基礎』(1918-20)

クーランジュ『古代フランスの政治諸制度の歴史』(1923-24)

トインビー『歴史の研究』(1933-39)

マイネッケ『歴史主義の成立』(1936)

ロストフツェフ『ヘレニズム世界の経済的および社会的歴史』(1941)

 

5.【社会学

ヘーゲル『法の哲学』(1821)

コント『実証哲学講義』(1830*4

スペンサー『社会学原理』(1876-96)

ウォード『動態社会学』(1883)

テンニエス『ゲマインシャフトゲゼルシャフト』(1887)

タルド『模倣の法則』(1890)

ギディングス『社会学原理』(1896)

サムナー『習俗』(1907)

デュルケム『宗教生活の原初形態』(1912)

ゾンバルト『近代資本主義』(1916-27)

ジンメル社会学の根本問題』(1916-27)

マッキーバー『コミュニティ』(1917)

ホブハウス『国家の形而上学的理論』(1918)

デューイ『人間性と行為』(1922)

ヴェーバー『経済と社会』(1922)

マンハイムイデオロギーユートピア』(1929)

 

6.【教育学】

ロック『教育論』(1693)

ルソー『エミール』(1762)

ペスタロッチ『リーンハルトとゲルトルート』(1781-87)

ヘルバルト『一般教育学』(1806)

フレーベル『人間教育』(1826)

デューイ『民主主義と教育』(1916)

マカレンコ(家庭と子供の教育』(1949)

 

7.【社会主義

フーリエ『四運動の理論』(1808)

オーウェン『新社会観』[原題はA New View of Society](1813)

サン=シモン『産業者の政治的教理問答』(1823-24)

プルードン『財産とは何か』(1840-41)

マルクスエンゲルス共産党宣言』(1848)

ラッサール『労働者綱領』(1862)

マルクス資本論』(1867-94)

エンゲルス『反デューリング論』(1877-78)

ベーベル『婦人と社会主義』[邦題は『婦人論』](1879)

エンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』(1884)

ショーほか『フェビアン社会主義論集』(1889)

ベルンシュタイン『社会主義の前提と社会民主党の任務』(1899)

カウツキー『農業問題』(1899)

レーニン『ロシアにおける資本主義の発展』(1899)

ソレル『暴力論』(1908)

レーニン帝国主義』(1916)

レーニン『国家と革命』(1917)

スターリンレーニン主義の諸問題』(1926)

毛沢東『新民主主義論』(1940)

スターリンソ連における社会主義の経済的諸問題』(1952)

 

 社会学の文献リストは、著者名ぐらいは流石に全部知っていたが、ウォードとかギディングスとかの本は未だに読んだことがない。コントについても『世界の名著』に収録されていた論文を読んだだけで、『実証哲学講義』はハリエット・マルティノーの英訳(実際は抄訳)版を斜め読みしたぐらい。そういうマイナーな古典にも興味はあるんだけど、邦訳がすごく古かったりでどうもアクセスしにくいんだよねー。あと、ヘーゲルの『法哲学』を社会学の文献と言われるとすっごく違和感がある。ただし、大陸ヨーロッパの側ではあの本が社会学の発展の下地になったと言われるし(富永健一『現代の社会科学者』)、社会学的にも読みどころがないわけではないんだろう。

 それ以外の法学とか歴史学とか教育学は、正直名前も知らない人がいっぱいいた。中には邦訳も出たことのないような著者もいるっぽい。あと、社会主義の文献に関しては、スターリンの著作は今となってはアクセスが困難だよなあと思ったのと……金日成が出てこなくて少しほっとした。

*1:ちなみに第五章では、日本国民がハッキリと「後進国民」と位置づけられている(p. 206)。1954年時点ならそれが普通の見方だったのだろう。それと、社会科学の関心事は体制・階級・民族にありというのが著者の立場だが、たぶんミクロ社会学の人なんかはこれに同意しないだろう。

*2:社会主義の立場から、著者はヴェーバーの価値自由論に対して次のようなコメントを残している:「社会科学者のなかには、社会科学の中立性を守るためにこの学問から価値判断を追放しなければならないと固く信じている人がある……社会科学は科学であるから、そこへ党派的な感情や偏見をもちこむことは絶対に排除されなければならない。それはウェーバーのいうとおりである。けれども社会科学は歴史の科学でもあるから、なにが歴史を作っているのか、だれが歴史を作っていくのかという問題にたいしても真剣にとっ組まなければならない。これは歴史の主体の問題といわれる。私たちは歴史や社会の流れをただ外側から第三者的に眺めているだけでは、歴史と社会を理解することはできない。自分で歴史を作り、社会を動かしていく立場に立たなければほんとうのものをつかむことはできないと思う。このような正しい立場に立ってはじめて階級的な立場の社会科学的な意味を理解することができるのであろう」(pp. 150-51)。僕はこの立場にはあまり賛同できないし、そもそもヴェーバーの価値自由論ってもう少し複雑な話だったと思う。

*3:社会主義体制の諸国にもまだいろいろ重大な問題が続出していて、その解決は将来の課題として残されている。だが、民衆の生活が少なくとも最低限度の保障と落ちつきと将来への明るい期待のなかに築き上げられていることは、いまではもはや疑いのない事実となっている。これにたいして資本主義体制の諸国においては、一般に生活の不安が民衆の悩みを増大させていることは否定できない……もちろん体制と体制が接触し、入りまじるような場合には社会主義体制の側にも不安と悩みがないわけではない。けれどもそれは二つの体制の接触から生ずる問題であって、体制内部の問題ではないのである」(p. 30)。今から見るとひどい記述だが、当時の学者としてはありふれた見方だったのかもしれない。ちなみに、著者はソ連崩壊の前年に亡くなったそうだ。

*4:著者は『実証哲学講義』の出版を1830年としているが、これは不正確。『実証哲学講義』の第一巻は1830年に出たが、最終の第六巻が出たのは1842年。ちなみに『実証哲学講義』は現在になっても未だに完訳版が出ていないが、著者が載せている邦訳は、石川三四郎訳,1931,『実証哲学』春秋社.だ。他に訳書があるのかは知らない。この石川訳は文庫版になったこともあるらしいが、情報が乏しいし、戦前の訳文を今更読む気にもならない。スペンサーの『社会学原理』とかもそうだけど、ちゃんとした訳書が出てほしい……まあ難しいだろうけど。

大塚久雄『社会科学における人間』

大塚久雄,1977,『社会科学における人間』[岩波新書岩波書店

 

 専門分野の関係上、経済史における大塚久雄の業績には大して興味が無い(素人目に見たって時代遅れな感じもするし)けど、彼の「人間類型論」にはちょっと興味がある。一段落でざっと要約してみよう:

 

 社会は人間がつくるものである以上、社会科学の議論は、何かしらの人間類型を前提として成り立つ。18世紀のイギリスで始まった経済学においては、いかにも目的合理的であり計画性のある人間類型が前提とされてきた。これは、経済学の成立に少し先駆けてデフォウ『ロビンソン・クルーソー』(1719)で描かれていたような人間類型だ(第Ⅰ部)。マルクスは、そういう合理的な個人から出発して社会現象を論じる経済学者の癖を批判した(その癖が『ロビンソン・クルーソー』にも見られるとも指摘している[p. 97])。それで『資本論』においては、むしろ諸個人が「社会的にはどこまでも諸関係の被造物だとする」立場が採用されている*1(p. 77)。ただ、人間類型論という面では、マルクスがそれ以上の積極的な貢献をしたとは言い難い(第Ⅱ部)。この点で重要な貢献をしたと言えるのがヴェーバーだ。彼の宗教社会学は、素朴唯物論を克服して「理念と利害状況の[相互作用の]社会学」(p. 172)を展開したのみならず、世界諸宗教の研究を通じて、複数の人間類型を比較するという道を切り開いた(第Ⅲ部)。ヴェーバーによるこうした比較研究の線に沿って人間類型論を展開していくことが求められる(第Ⅳ部)。

 

 内容はだいたい以上の通りだけど、「人間類型」という語については説明が必要だ。この語自体はゾンバルトなんかも用いていたそうだが、著者はこの語を「諸個人の内部におけるいわば思想的凝固物を通して社会的に現われ、そして、集団全体の文化を性格づけているような、そういう人間の思想と行動の様式」などと定義している(p. 18)。同義語とはいかないだろうが、ヴェーバーにおける「エートス」に近いものがあるだろう。

 社会科学史として著者の議論がどれだけ正確なのかは分からない。例えば、18世紀の経済学者においても人間類型ってのはもっと複雑だったんじゃないか、とかいう疑問は思いつく(だって、アダム・スミスは最強の懐疑主義者たるヒュームの友人だったわけだよね)。それに、この構成だと、人間類型論という文脈でことさらマルクスに章を割くほどの重要性があるのだろうかという感じもした。とはいえ、ヴェーバーを扱った第Ⅲ部はいい感じで、この部分は何度か読み返すことになりそうだし、むしろ学部生の頃に読んどけばよかったなーという気もする。

*1:ポパーはここに注目して、マルクスが「心理学主義」を脱して社会学に向かった点を賞賛している。ただし、ヘーゲル流のヒストリシズムにまで行きすぎた点については批判している。また、少なくともポパーの見るところ、マルクスは決して合理的な行為者としての個人という前提を放棄したわけではなかった──そうだとすると、マルクスは後の批判理論なんかとはずいぶん違っていることになる(『開かれた社会とその敵』)。

高根正昭『創造の方法学』

高根正昭,1979,『創造の方法学』講談社

 

 アメリカで計量的手法を学んだ社会学者が、方法論について論じた本。流石に古いし新書なので、社会調査法のテキストとかを一通り読んだ人であればこれといった新発見はあまりないと思う。でも、ごく短時間で読み終えられるし、研究において本当に大事なことの整理にもなりそうなので、一読の価値はあると思う。随所に挟まれるアメリカ留学時代のエピソードも面白いし(特にラザースフェルドとベンディクスの話)。

 この本の問題点は、たぶん、タイトルが回収しきれていないところだ。まず、何を「創造」するのかといえば、もちろん理論や概念だ。そして著者は、本書の終盤において、自身の立場が当時アメリカで流行っていた「理論構築法」(名前は挙げていないがアーサー・スティンチコムとかの)に近いことを記している。

 

 つまり理論構築法といってもその原則は、実は方法論におけるもっとも基本的な原則、つまり因果関係の推論を行う際の原則を、理論の側面から述べたものに他ならない。言いかえれば、現実の研究の過程を考慮しながら、科学の論理を原則的にまとめたものなのである。そしてこの理論構築法のなかで中心を占める原則が、すでに紹介した因果関係の推論における、三原則なのである。すなわち(1) 独立変数の先行、(2) 独立変数と従属変数の共変、(3) 他の変数の統制(パラメータの確立)の三原則なのである。このような、理論と方法との融合化の傾向の進んでいる今日、これまで存在した理論と方法の乖離は、既に時代おくれの現象となってしまった。言いかえれば因果関係論を中心にして、理論構築の原則と、方法論の原則とは重なり合いながら、科学的研究法の中心的な核を構成するようになったのである(pp. 189-90)。

 

 でも、この「三原則」さえ押さえていれば良い理論を得られるということでもないはずだ。たぶん、優れた理論や概念は、データから自然に生じてくるものではない。ニュートン以前にリンゴが落ちるのを見た人は何万人もいたが、ニュートン以前に万有引力の概念を思いついた人は誰もいなかったわけだ(まあ、リンゴの逸話は創作らしいけど)。社会学の例でいうと、自殺率に関するデータだけをぼんやり眺めているだけでは、(デュルケムが提示した)アノミーの理論とか「アノミー的自殺」みたいな概念とかを導き出すことは難しいだろう。

 だから、理論や概念の「創造」にはデータを集めていじくる以上の過程が必要になるわけだが、そこに関する著者の記述は二段落で片付けられている。

 

 [研究対象となる]問題が確定したらその現象を引き起こす「原因」を考えなければならない。一口に原因を考えるといっても、現実の社会は極めて複雑であるから、何が「原因」であるか見当もつかない場合が多いであろう。しかし星の数ほどある現象のうち、なにを選び出して「原因」とするかは、研究者がその見識によって決定しなければならない問題である。そこで適切な原因を選び出すには、われわれが今日まで積み重ねた経験と知識とを、総動員しなければならない。

 ある問題を考えたとき、誰れもまず最初に思いつくアイディアがあるであろう。私はこの最初に思いついたアイディアは大切にしなければならないと思う。なぜなら多くの場合それはわれわれ一人一人の、固有の経験に基づく場合が多いからである。そこにわれわれが独創的な仮説を提出できる可能性がある。しかし思いつきだけではいいかげんになる恐れがある。次には現在までに読んだり聞いたりした本のことを、思い出してみることである……あるいは新しく今まで読んだことのない古典や新刊書に当たることもよい。雑誌論文でもよい。あるいは信頼できる百科事典に当るのもよい(p. 49)。

 

このへんの記述自体にあまり異論はない。当初の思いつきに拘ることの重要性はさておき、研究者自身が「適切な原因を選び出す」必要があるということ、また古典や先行研究に当たるのが重要だということは間違いない。たぶん、実りある理論を導き出すためには、古典をしっかり学んで、巨人の肩の上で経験的研究に取り組み続けるのが良いんだろう。それはそうだけど、最も「創造」に関わるそうした過程についてもっと詳述してほしかったというのが率直な感想だ。

 そういう不満があるとはいえ、社会科学の方法に関する入門書としてはなかなか良いと思うし、さすがにロングセラーなだけある。それに、60-70年代のアメリ社会学を現地で浴びた日本人の体験記としても面白い。なんというか、この頃の社会学ってすごく面白い分野だったんだなあ……という感じがする。

 

 余談──半世紀ちょっと前に本格的な計量的研究をやるときには、データカードなるものを大量に用意する必要があって、そのうえで大変な手作業をする必要もあったらしい(第五章)。こういう作業が今ではExcelとかPythonとかRとかで気軽にできるわけだから、そういう意味では良い時代になったのだなあと思った。