世異則事異

大学院生 読んだ文献のメモとか

フクヤマ『歴史の終わり』

フランシス・フクヤマ,1992,『歴史の終わり(上・下)』渡部昇一訳,三笠書房

 

 ろくに読んでもいないであろう人々からも批判されているあたり、この本も名著なのかもしれない。一般には「自由民主制や資本主義の勝利宣言の本」として知られているのかもしれないし、それもあながち間違いではないのだけど、あれこれ誤解を受けている本だというのも事実だ。

 前提として、フクヤマがいう歴史というのは、戦争だとか革命だとかいった重要な出来事の積み重ねのことではない。彼は専らヘーゲル的あるいはマルクス的な意味で「歴史」という言葉を用いていて、この場合は諸社会の一方向的な進歩の過程を意味している。マルクスの場合、歴史といえば部族社会から封建社会へ、そして資本主義社会へ、という進歩の歴史のことだった(いかにも西欧中心的な見方だが)。だから、本人もわざわざ序文で言っている通り、天安門事件だのクウェート侵攻だのといった個々の事件を持ち出して「歴史は終わっていないじゃないか!」と批判するのは筋違いだということになる。彼が言っているのは、政治や経済に関わる理念と制度の進歩の過程としての歴史の終わりだ。

 一読してわかるのは、フクヤマの言ったことはそれほど間違っていないということだ。本当に歴史は終わったのかもしれない。だって、結局のところ西側の誰も自由民主制や資本主義よりマシなしくみを誰も思いついていないのだし、有効な改革というのはだいたい自由民主制の枠内でなされているのだから。

 

 もちろん私は、アメリカやフランス、スイスのような今日の安定した民主主義諸国には不正や深刻な社会問題がなかったなどというつもりではない。けれどもこうした問題は、近代の民主主義の土台となる自由・平等という「双子の原理」そのものの欠陥ではなく、むしろその原理を完全に実行できていないところに生じたものなのだ。現代の国々のいくつかは、安定したリベラルな民主主義を達成できないかもしれない。なかには神権政治軍事独裁制のような、もっと原始的な支配形態に後戻りしかねない国もあるだろう。だがリベラルな民主主義の「理念」は、これ以上改善の余地がないほど申し分のないものなのである(上巻、pp. 14-15)。

 

 自由民主制が勝つ、と彼が考えたのはなぜだったのか。この本で彼はきわめてヘーゲル的な(といっても実はコジェーヴが解釈したヘーゲルの)歴史観を採用している。彼によれば、人間はそもそも物質的な繁栄だけを求める生き物なのではなく、地位や尊厳の承認をも求めている。だが、承認の願望にも二種類がある。一つは「優越願望」メガロサミア(megalothymia)で、つまり自分が他人より優れているのだということを他人に認めてもらいたい願望。もう一つは「対等願望」アイソサミア(isothymia)で、これは他人と対等な人間として認められたいという欲望(下巻、pp. 31-32)。フクヤマ自身がつくったこの対概念は結構興味深い。トクヴィルであれば近代化というのは平等化の過程に他ならないということになるけど、(誰でも心当たりがあるように)人間の優越願望が消えることなんてありえない。フクヤマによれば、近代社会に向かう諸変化も、これら二つの願望の相克として描かれるわけだ。

 承認を求めるこれらの願望は、政治を動かす力にもなる。とりあえず、対等願望が民主化への道を開いてきたということになるのだろう。工業化が進んで人々の生活水準が改善され、また教育のレベルも上がっていくことで、人々はより強い承認を求めようとする。そして、結局のところ自由民主制こそが、人々をよりよく承認できる、そして人々がよりよく承認しあえる政治制度だ。だから、人々は「市場経済志向的な権威主義国家」に甘んじてばかりいられないし、自由民主制を求めるようになる。「彼らは、自分を子ども扱いではなく大人として扱ってくれるような政府、自由な個人としての自主性を認めてくれるような民主的な政府を求めるようになるのだ」(上巻、p. 25)。承認という概念がいまいち気に食わないのだけど、これはそんなに変な議論ではないし、イングルハートなどはデータに基づいて同じようなことを主張してきたと思う。

 とはいえ、この本が全体的に楽観的すぎるというのも確かだ。自由民主制の理念には「改善の余地がない」(改善策が見いだせていないということでもある)のかもしれないけど、それが「歴史」の終着点だなんて断言していいのだろうか? いま中国でとられている政治体制は、過去のどの国家が採用していたものとも異なるもので、しかもある点では自由民主制よりすぐれたパフォーマンスを見せてくれるのだとしたら? いくらかの人びとにとっては、それこそ「市場経済志向的な権威主義国家」の方が魅力的なモデルなのかもしれない。人々が承認を求めるからといって、表現の自由の拡大だとか権威主義的国家の転覆だとかいった大げさな現象が引き起こされるとは限らない。別に国家に対して文句を言う権利なんか無くても、経済活動の自由が認められていれば、人々の承認願望は案外満足してしまうのかもしれない。

 そういう意味で、與那覇潤さんは「歴史」なら宋王朝が成立した千年前に終わってますよ、と冗談っぽく書いていた(『中国化する日本』)。皇帝を除いては身分制も世襲制もなくなり、移動も職業選択も自由になり、(男子なら)勉強すればだれでも官僚にだってなれる。統治者の機嫌さえ損ねなければ基本的には何をしたっていい……今の中国も案外そんなものか。フクヤマの見た「歴史の終わり」と違ってそこには民主制も法の支配もないわけだが、もしかしたら別にそれでいいのかもしれない。承認願望なんてネットのコミュニティなんかで満たしておけばいいし、わざわざ熱心な政治活動なんてしなくてもいい。中国人だけでなく、日本人やヨーロッパ人もそう考えていたって不思議ではない。

 結局、フクヤマ自身、のちの著作ではヘーゲル流の単線的な進歩史観を完全に放棄するに至っているし、ヘーゲルの名前さえほとんど出さなくなる。『歴史の終わり』はかなり荒っぽい政治哲学の本という感じだが、2010年代に彼が書いた『政治秩序の諸起源』や『政治秩序と政治腐敗』は(彼の師であるサミュエル・ハンチントンを思わせる)見事な政治科学だ。いま読むなら後者の二冊だろう。

Kate Nash「人権の政治社会学にむけて」

Nash, Kate. 2012. "Towards a Political Sociology of Human Rights." in Edwin Amenta, Kate Nash, and Alan Scott (eds.) The Wiley-Blackwell Companinon to Political Sociology. Oxford: Blackwell. 444-453.

 

 The Wiley-Blackwell Companion to Political Sociologyに収録されている短い論考。なんか、あんまりまとまりのない文章。こういう本だから仕方ないかな? とりあえず、論点をいくつかメモする。

 著者のケイト・ナッシュロンドン大学教授の社会学者らしい。おそらくは人権、シティズンシップ、ジェンダーなどのテーマに取り組んできた人で、2015年にはこの論文とほとんど同じタイトルの『人権の政治社会学』という本をケンブリッジ大学出版局から出しているそうだ。

 著者によれば、人権は社会学者にとって長い間無視されてきたテーマだった。その一因はたぶん方法論的ナショナリズムにあって、つまり人権に関する国際規約とか国際機関とかいったものがそもそも分析に含まれないことが多かった。もちろん、グローバル化が騒がれ始めた90年代以降は状況が大きく変わった。もう一つの理由は、そもそも社会学という分野自体に文化的相対主義の傾向があること。(この点について著者は細かい議論をしていないが)確かに、社会学者から見れば道徳とか権利とかいったものは諸々の社会的要因(経済とか宗教とかいったもの)によって形成されるものだ。とりわけデュルケムはそのことを明示していて、『社会分業論』の第一版序文にはカントの普遍的な道徳の概念をバカにするくだりがあった。実際、規範も権利もそれぞれの社会ごとに違っていて当然だし、「普遍的権利」なんてものを想定することは、社会学者の考え方にそぐわない。

 社会学者から見れば、全ての人権は「社会的」だ。法学の分野では、ゲオルグ・イェリネックが言い始めた「消極的権利」と「積極的権利」という二分法がある。これは、アイザイア・バーリンのもっと有名な「消極的自由」と「積極的自由」と似たような区別だ。要するに、「~されない権利」(殺されない、奪われない権利、弾圧されない権利)と「~する権利」(給付を受ける権利、きれいな水を飲む権利、まともな教育を受ける権利・・・)とを分けて考えようということ。古典的なリベラリズムが前者を擁護してきたのに対し、多文化主義アファーマティブ・アクションを支持する現代のリベラルは後者にこだわっていると言えそうだ。この二分法を受け入れるとしたら、国連のB規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)は消極的権利に含まれ、A規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約)は積極的権利に含まれると見なせるだろう。でも、こういう区別は誤解を招くものだ。だって、いわゆる消極的権利を保障するためにも、多大な投資と組織化が必要だからだ。治安を守るためにはよく訓練された警察が各地に配置されなければならないし、その警察もまたよく管理されていなければならないし、貧乏な被告人でも公平な裁判を受ける権利がある。「豊かで合理的にうまく機能しているような自由民主制諸国においてさえ、諸権利の保障には、十分に資金のある、専門的で士気の高い人権諸組織による恒常的な警戒が必要である」(p. 446)。「新しい人権」とか言われることを思えば人権が社会的に構築されるものであることは明らかだが、人権の維持もまた社会的になされているわけだ。

 社会学者の役割は、「実践において人権に対するリスペクトを確かにしうるような特定の歴史的、文化的そして地政学的な諸条件を探究すること」(ibid.)だ。人権は社会的に構築され、また社会的に維持されるものである。

 人権はグローバル化しつつある。人権というのは人間が人間であるだけで持っている権利であるから普遍的なものなのだ……と言うのは形式的な話で、実際のところ人権が普遍的に保障されているわけでないのは明らかだ。それだから、人権のグローバル化という現象もありうる。たぶん、どんな国家のアクターも人権を尊重しているように見せかける必要性を感じている。でも、それで国家が弱められていると論じるのは早計だ。人権に関する国際規約にサインするのは国家の代表たちなのだし、本当にイヤならサインしないという選択肢もある。

 ジョン・メイヤーなど「世界社会理論」の一派が論じるように、人権条約などにサインして人権問題にとりくむ(あるいは、取り組む姿勢を見せる)ことは、「世界文化」への適応と見なせる。でも、メイヤーも認めている通り、それは実践を伴うとは限らない。Hafner-Burton and Tsutsuiの統計的分析によれば、各国における人権に関する国際条約の批准は、それぞれの国における人権問題の改善をもたらすどころか、むしろ悪化を伴う傾向にあった。どうやら、当該国家がグローバルな市民社会とよく結びついていたり、あるいは国際NGOから国家エリートに向けた人権規範順守への圧力が強かったりという状況でなければ、人権条約などはなかなか効力を持たないらしい。

 「効果的な圧力は、市民社会の諸行為者から来るだけでなく、他の諸国家から来ることもある」(p. 448)。国連人権委員会では、各国の代表が参加国それぞれの人権問題について勧告していたりする。あれだけで十分とは思えないが、欧州人権裁判所や環アメリカ人権裁判所みたいに大陸レベルの司法機関からの勧告は結構影響力を持っているように思われる。「外圧」で変わるのは何も日本だけじゃないわけだ。

 「国際人権法は、国家の異なる諸部門(branches)の間の力のバランスを変えるときもある」(p. 449)。アメリカの、少年に対する死刑の廃止の事例が紹介されている。2005年にアメリカの最高裁は、少年に対する死刑なんてもう世界中のどの国家もやっていない(少なくとも公に支持してはいない)のだから廃止すべきだと言った。国際慣習法(customary international law)からこういう議論が引き出されたわけだけど、国内では当然反発もあった。だって、これって民主的なのか? 選挙で選ばれた国民の代表じゃなくて、裁判官が決めていいわけ? こんな感じで、国際人権規範の影響と国民主権の問題との複雑な関係はよくある話らしい。もっとも、アメリカのように司法が議会と関係なしに人権問題にとりくむという現象は、とりあえず司法の独立性がある程度強い国々でなければ中々起こらない現象だと思う。

 人権が実現されるには、(国際的な?)法の支配を受ける官僚制国家があるだけでもダメで、資金のある人権組織があるだけでもダメ。それだけじゃなくて、人権が大事なものとして受け入れられている必要がある。「必要なのは『心』(hearts and minds)における変化であって、国家の役人たちからTV視聴者、投票者、納税者にいたるまで社会全体で人権の価値と重要性が認められていることである。」(p. 451)。人権が大事だと思われていることだけではなくて、人権とはいったい何なのか、どんな権利が大事なのかということについても「相互主観的な」理解がなければならない、とも言っている。このように、「人権の実現のために必要な法律外の(extra-legal)諸条件」を、筆者は「人権文化」と呼んでいる。(なんかH.L.A.ハートも結構似たような話をしていたと思うけどね。)この人権文化の度合いというものは、イングルハートらの社会調査みたいなデータである程度実証的に見ることができるのかもしれない。

 まあ人権文化が大事だというのはそうなんだけど、結局のところ何が大事な人権であるのかという点こそが論争になっているのだろう。世の中には中絶する権利は人権の一つだと言う人もいる(逆に生まれてくるはずの子供の人権の侵害だと言う人もいる)し、同性婚をする権利は人権として認められるべきだと言う人もいる。

 あんまりまとまりのない論考だけど、とりあえず人権の社会学における理論的な論点は一通り触れられている……たぶん。

政治は象徴をめぐる闘争である/ブルデュー「政治界」

ブルデュー,ピエール,2003,「政治界」『政治──政治学から「政治界」の科学へ』藤原書店

 

 ブルデューといえば社会階層と趣味との関係を論じた学者として知られているが、近年では彼の理論や概念を政治社会学に使う研究者が増えているらしい。ブルデュー自身も政治にかなり関心を持っていたから、彼自身も自分の概念を用いて近代国家の形成とか現代政治の諸問題とかについてあれこれ論じていたという。で、この本に収録されてるのは彼が1999年にリヨン大学で行った講演。ブルデューの本は(現代フランスの学者の大勢と同様)やたら難しい文章で困るけど、これは流石に講演の記録なだけあって比較的読みやすい。だから、ブルデューの政治社会学について知るにはまずこれがいいかなあと思って読んでみた。

 以下は抜き書き。

 

 政治界というのは、アクセスの条件を満たした一部の人々が他の人々は排除されている特殊なゲームを演ずる場である、ということです。政治の世界は排除の上に、剥奪の上に成り立っているということを知っておくことは大切です。政治界が形成されていくにつれて、自律化するにつれて、それはますます職業化します……政治家だけが政治を語る能力=権限……を持っている。政治を語ることは彼らに所属する。政治は彼らに所属する。これが政治界の存在の中に書き込まれている暗黙の命題です(pp. 78-80)。

 

 「私はあなたのために働きます」……と[政治家が]言うことは「私は、あなたがそうであれと私に言う、そういう人間にほかなりません」と言うのと同じことです。「私はあなたの代弁者です」、「私には自分を表現することに利益はありません」……と言うのと同じことです。その反対に、政治界というものがあると主張することは、政治界の中にいる者は彼に投票した者たちとの直接的関係によってではなく、界の他のメンバーとの関係によって決定されることを言ったり行ったりすることがある、ということを指摘することです。政治家が何か──たとえば治安や非行についての意見──を言うのは、国民一般の期待に応える、あるいは彼に投票した、彼を受任者として指名した人々の期待に応えるためでもなく、界の他のメンバーが言うこと言わないこと、することしないことを参照しつつ、自分を差異化するため、あるいは逆に、自分が獲得する代表性の外観を脅かしかねない位置を占有するためです。……政治家が行うことを理解するためには、誰が彼に投票したか、彼の選挙基盤は何か、彼の社会的出自は何かを調べる必要があるのはもちろんですが、同時に、彼が政治界というミクロコスモスの中で占める位置を調べなければなりません。彼の行動の大半を説明するのはこの位置なのです(pp. 82-83)。

 

 政治界は自律的であるということ、政治界には固有の論理があり、この論理が界に参画しれいる者たちの立場選択を決めるということは、委任者の利害に自動的に還元することはできない界に特有の政治的利害があるということを含意しています。同じ党に属する者たちとの関係で、あるいは他の党の者たちとの対立の中で定義される利害です。界として機能するために閉鎖効果が発生します。この観察可能な効果は次のような過程です。つまり、政治空間は自律化するにつれて、固有の論理によって進むようになる、界に内在的な利害に従って機能するようになる、そしてノン・プロとの断絶が深まる、という過程です(pp. 83-84)。

 

 このように自律性が高まる(つまり断絶が深刻になる)理由の一つは、界が「界固有のゲームの勘(センス)の生産と発揮の場である」ことにある(p. 84)。それぞれの界には暗黙のルールがある。政治の界でいえば、そこへの参加者はみんな「型にはまった言語、コツ、力関係、政敵との付き合い方」を学ばないといけない(p. 85)。

 そういう固有のルールに政治家みんなが従う(ということはそのルールが再生産される)ことで、政治界の閉鎖性(自律性)が高まる。これは、芸術界がどうしようもなく閉鎖的になってしまったのと同じ話だ。前衛絵画のような界では、展覧会に来るのがもはや同業者ばかりだということになっているらしい(p. 86)。でも、政治界は芸術界と違って極度の閉鎖性を得ることはない。一応、形式的には民衆の声を代弁してるということになってるわけだから、「ノン・プロの審判に晒されている」という面もある。政治界の場合は、「ノン・プロがプロ、界の成員の間の闘争において勝敗を決する」(p. 90)。

 政治界には誰が属しているのか? 「ある行為者がある界の中にいるかどうかは、彼が界の現状を変えるかどうか(あるいは彼を排除したら界の様相が変わるかどうか)で分かります」(p. 88)。例えば、フランスの国民戦線(パパの方のルペンが党首をやってた頃だ)は政治界の行為者とみなしうるが、それはあの党が政治界に持ち込んできた諸問題についてこの界における他の行為者たちまで配慮しないといけなくなったからだ。つまり、フランス人/外国人という対立軸が持ち込まれ、いつの間にか誰にとっても無視できない論点になって、富裕層/貧困層という対立軸にほとんど取って代わったわけだ。

 界は自律的で閉鎖的であるとはいえ、界の境界は常に安定しているわけではない。「界への新参入者が界への所属原理を変革する結果、これまで界に所属していた者が所属しなくなり、所属していなかった者が所属するようになる事態」が起きうるという。これは「パラダイムの変換」であり、界の境界の変動である。芸術界においてマネが起こした「印象派革命」はまさにそういう現象だ──「規範(ノモス)の所有者、基本的法の所有者が突如として失格し、異端者が是認され正統化される」(p. 89)。

 では、政治界においてはどんな「パラダイムの変換」がありうるか? 政治闘争は、「正しい」ものの見方・分け方をめぐる闘争だ。さっきの国民戦線の例で考えてみよう。従来の政治界では、政治における主要な分け方とは富裕層と貧困層の区分だ、という見方が前提になっていた。その前提を共有する人だけが政治界にいたのであって、その前提を支持するということは界への所属原理であったともいえる。そこに国民戦線の連中が入り込んできて、フランス人/外国人という区分を持ってきた。そうすると、立場はどうあれ、もはや経済格差だけの話しかできない政治家も政党も人気を失っていくことになる。別にルペンみたいなのに同調する必要はないけど、例えば移民問題に関して何らかのビジョンを示すことができないといけなくなる。それができない政党は「失格」というわけだ。そして、右派の政党は、移民問題に深い懸念を抱く有権者たちを多く動員できるようになる。こうして、政治界の境界が変動するのであり、つまり勢力の構図が変わる。

 

 政治は観念をめぐる、特殊なタイプの観念、すなわち観念=力idées-forces、動員力として機能することによって力を与える観念をめぐる闘争です。私の提唱する分け方の原理が万人によって認められれば、私のノモスが普遍的ノモスになれば……私は私の見方を分け持つ人々の一大勢力を背後に従えることになるでしょう(p. 90)。

 

 でも、政治界パラダイム変換はもちろん左翼の側からも起きる。ブルデューに言わせれば、あの「万国の労働者、団結せよ!」というスローガンも、「国を越えて富裕層と貧困層を対立させる国際的な分け方の原理の方が国と国とを対立させる分け方の原理よりも重要であることを述べた政治的宣言」だということになる(pp. 90-91)

 

 「宗教財」をめぐるヴェーバーの議論を踏まえて、ブルデューはこうも言っている。「政治闘争は政治責任者間の闘争です。しかし、この闘争において互いに敵対する者たちは、政治財の正統な独占的操作権をめぐって競争関係にあるわけですが、国家に対する権力を争点として持っている点では共通しています」(p. 91)。

 

 「それぞれ特殊な資本が界に結びついており、その資本はそれが通用する界の境界と同じ価値・効力の境界を持っています」(p. 91)。これはブルデュー理論の基本で、政治界にも独自の資本があるということになる。つまり「政治資本」だ。「政治資本は……評判資本、どう見られているかという問題と結びついた象徴資本です」(p. 92)。

 現代では、政治家の持つ政治資本は、政党によってもたらされる。ブルデューは政党の役割をかなり大きく見ている。「政治家の政治資本は第一義的に彼の党の政治的重み、そして党内におけるその政治家の重みに左右されるようになったのです……今日では、党はいわば銀行、政治資本の銀行で、党首はその銀行の頭取……です。官僚制化された、官僚的な、党官僚集団によって官僚的に保証された政治資本へのアクセスを掌握する頭取なのです(p. 93)」。

 だから、政治家は政党に強く依存している。政治家は、宗教界における献身者(オブラ、oblats)に似ている・・・「オブラ」っていうのは、貧しい家族が教会に献じた息子のことらしい。オブラたちは、教会によって全てを与えられた人々であるから、誰よりも教会に対して忠実に行動した(教会を離れれば、彼らは何物でもなくなってしまう)。政治界でも同じようなことがあって、例えば(おそらくフランスの)共産党は特にこのモデルを実行してきた──「党官僚は彼らの一切の正統性、一切の権力を党の信認から得ているがゆえに、完全な保証のある者たちなのです。党から信認を剥奪されれば彼らはゼロです。だからこそ除名は悲劇になるのです。除名は破門と同じです」(pp. 93-94)。

 

 政治界に特殊的な政治的利益と政党への所属との結びつきは次第に強くなります。同時にこの利害と、政党の再生産との、および政党が保証する再生産との結びつきが強くなります。政治家が行う行動の大きな部分はもっぱら、党機関を再生産することと、彼らの再生産を保証する党機関を再生産することによって政治家を再生産することを目的とした行動です(p. 94)

 

 ここでも宗教界と政治界とのアナロジーが出てくる。フランスの教会はカトリック私立学校の補助金獲得にかなりの力を注いでいる。これは結局、「教会がなくなったら自分の仕事と存在理由がなくなってしまう人々」(p. 95)の数をできるだけ多く保ちたいからだ。だから、教会の真の影響力はミサに来る人々の数ではなくて、教会関連の施設の多さとか、それによるポストの数とかに現れるわけだ。

 これは政党の場合でも同じで、つまり政党が存続できるのは、その政党がなくなれば仕事を失う人々がいるから。「政治的行動の大きな部分は党機関メンバーの政治的存在を保証する党機関を再生産する目的が動機になっています」( p.95)。

 「政治界は社会世界の見方・分け方原理を正統なものと認めさせることを争点とするゲームとして記述できる……政治ゲームの争点は他の仕方で見る・信ずるようにさせる力を独占することです。宗教界のアナロジーがこんなにも有効なのはそのためです。正統と異端の間の闘争なのです」(pp. 95-96)。

 

 政治界の閉鎖性についての議論において、ポピュリズムはどう位置づけられる?

 

 今日、政治的な争点のひとつは、まさしく政治界の境界線をめぐる闘争です。政治界の定義を拡張しようとする闘争が存在するのですが、それはすぐにポピュリスムとして非難されます。この侮辱は大変重たい意味を持っています。それは人種差別主義者を名指すための婉曲語法だからです。ところで、そうした闘争の発想源は政治界の閉鎖に対する反抗、その厳格な定義に対する反抗に存するのであって、政治界を広げるために闘っているのです。難問のひとつは、政治的分業をいかに変容させれば政治システムへのアクセスが拡大され、より多くの人々が政治界に影響を行使できるようになるのかを知ることです(p. 105)。

 

 ここからは、ブルデューポピュリズムに対してどのような評価を下していたかははっきりしない。何にせよ政治界が閉鎖的になりすぎるのはよくないわけで、彼自身も一般人の政治参加についてあれこれ考えていたことは分かる。ポピュリズムにしても閉鎖的になった政治界への異議申し立てで、「パラダイム変換」の試みだともいえる。国民戦線のそれはある程度成功した。フランスにおいてポピュリズムという言葉が専らルペン流(それもパパの方)の排外主義みたいなイデオロギーを意味するのであれば、彼はもちろんそれに与するつもりは全くなかっただろう。でも、確かに欧州におけるポピュリズムといえばだいたいはそういう右派なのだけど、ラテンアメリカでは左派ポピュリズムの方が根強いし、アメリカでもバーニーが出てきた。ブルデューならそういう左派ポピュリズムをどう評価しただろうか? まあ理論的にはどうだっていい話だけど……。

 

 一読して思ったのは、ブルデューのいう政治界がほとんど議会政治の界である、つまり政治家の界であるということだ。ポピュリズムにしたって議会政治の枠内での運動なわけだし。いわゆる「サブ政治」なんかは、とりあえず政治界の外の話ということになるんだろう。でも、いくらかの国々における同性婚の法制化がそうだったように、政治的変化のなかには議会政治(つまりブルデューが論じる政治界)をあまり介さずに成し遂げられるものもある。そういう現象については、「司法界」とか「行政界」という語によって論じるべきなのかもしれない。ともかく、ブルデューの冷徹な議論はなかなか面白い。この辺の話題に関して彼が書いたものをもう少し色々読んでみることにしよう。

LGBTは暴力被害を受けやすい

Flores, A. R., L. Langton, I. H. Meyer, and A. P. Pomero, 2020, "Victimization rates and traits of sexual and gender minorities in the United States: Results from the National Crime Victimization Survey, 2017", Science Advancesm 6(40).(https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.aba6910)

 

アブストラクトの和訳:

 合衆国における性的・ジェンダーマイノリティ(SGMs)は、シスジェンダーヘテロセクシャルの人々と比べて、不相応な割合で犯罪被害に遭っているのだろうか? この問いに答えることは今まで困難だった。というのも、全国の代表的な犯罪被害データは、被害者の性的指向ジェンダーアイデンティティを含んでこなかったからだ。犯罪被害についての代表的な情報に関する国の主要な情報源である全国犯罪被害調査は、2016年から性的指向ジェンダーアイデンティティを記録し始めており、2019年にはそうしたデータを初めて公開した。SGMsが様々な種類の犯罪にわたり、不相応な割合で被害者になっているということが見いだされる。SGMsが暴力被害にあう割合は1000人あたり71.1人であり、一方SGMsでない人々の場合は1000人あたり19.2人である。SGMsは、SGMsでない人々と比べて2.7倍の確率で暴力犯罪の被害者になりやすい。こうした発見は、被害者化と介入において性的指向ジェンダーアイデンティティをさらに考慮することが重要であると提起する。

 

 HRWの記事なんかは、アメリカにおいて「トランスジェンダーの人々に対する暴力が増加している」と断言したりしている。でも、その記事も言ってるように、実際のところ暴力被害者のジェンダーセクシャリティは記録されないことも多いらしい。だから、本当にLGBTへの暴力が増加しているかどうかを統計的に把握することはなかなか難しい。「とりわけ黒人やラテン系のトランスに対する暴力の増加が深刻だ」とかいうのも、実のところ思い込みだったりするかもしれない。本当に増加してるのか、本当に黒人の被害がとりわけ多いのだろうか?

 でも、使えるデータが全くないというわけでもないらしい。この論文は、アメリカの全国犯罪被害者調査(National Crime Victimization Survey)とかいうデータを使って、LGBTが犯罪被害を受ける頻度はストレートの人々に比べてどれだけ高いのか、などのことを検証したもの。この調査自体は1973年からあるらしいが、アブストラクトにある通り、犯罪被害者のエスニシティ・人種やセクシャリティジェンダーを記録し始めたのはごく最近のことだ。この論文が扱ったのは2017年のデータ。サンプルサイズは、SGMでない女性が110,627人、SGMでない男性が97,170人、レズビアンが1206人、ゲイが1450人、バイセクシャルの女性が941人、バイセクシャルの男性が301人、そしてトランスジェンダーの人々が194人。つまり非SGMが95%ぐらいを占めているわけだが、世界各国におけるLGBT該当者の割合は3~6%というし*1、まあ割合としてはこんなもんだろう。ただ、SGMの方のサンプルサイズが小さいかもっていう懸念は著者たちも示している。

 それで結果はどうかというと、アブストラクトにある通り、確かにSGMの人々は非SGMの人々よりも犯罪被害を受ける可能性がかなり高い。例えば、レイプ被害の件数だと、非SGMの場合は1000人あたり1.3人なのに対し、SGMの場合は1000人あたり13.1人だった(13倍!)。もっとも、著者たちはエスニシティや人種のことについてはあまり考察していない。サンプルサイズがかなり小さくなってしまうからだという。だから、HRWの記者たちが言うように黒人トランス女性への暴力がとりわけ深刻だとかいったことは、まだ検証できていないようだ。

 それと、このデータセットジェンダーなどを扱い始めたのは最近のことなんで、結局、SGMに対する暴力が増加しているのかどうかは分からない。アメリカでは最近になって暴力犯罪自体がまた増え始めているから(下図は殺人件数の推移)、マイノリティに対する暴力もそれと同じぐらいかそれ以上の割合で増えていてもおかしくはないけど、マイノリティへの理解が進んだことでむしろ減っている可能性も大いにある。この論文は2017年のデータに関するものだが、その後はどうなったのだろうか?

各国における殺人の件数
出典:Our World in Data(https://ourworldindata.org/homicides

 まあとにかく、こんな感じで犯罪被害に関するデータが充実し始めているのはいいことだし、アメリカみたいにやたら暴力的な社会ならなおさら必要だろう。アメリカの場合は、差別というか暴力そのものを減らす努力をした方がいいような気がするけど・・・。

*1:森永貴彦,2018,『LGBTを知る』日経文庫,p. 28.

同性婚を認めたエストニア

 覚書き。ちょっと前の話だけど、今年の6月にエストニアで同性婚の法制化が決まった(リンク先はHuman Rights Watchの記事)。同性愛者の結婚を求める新法が議会の多数による賛同で通り、年明けの1月から施行されるそう。これは急な話でもなくて、2016年には同性間のシヴィル・ユニオン(日本でいう「パートナーシップ制度」みたいなもの)が全国で認められたし、同性婚が可能な他国で結婚したエストニアカップルも認めるようになっていた。とはいえ同性婚が認められるのはやはり画期的なことで、これによって同性カップルが養子をとることも可能になった(異性カップルと違い当事者だけで子供を作れないことを考えれば、これはとても重要なことだろう)。

 エストニアの人口は130万ちょっとだから、これで直接恩恵を受ける当事者はそう多くない。でも、旧ソ連諸国のなかで同性婚を法制化したのはこれが初めてだし、旧共産圏という括りで考えても中南米キューバ(2022)やチリ(2022)に次ぐ事例なんで、まあめでたい話だ。下の図は今年の5月時点での各国の法制化の状況をピュー研究所がまとめたものだが、来年からここにエストニアが加わることになるわけだ。

 問題は、この法制化が世論とどう関係していたかという点だ。European Values Surveyのデータなんかを見れば分かるように、ヨーロッパの中でも同性愛にとても寛容な西欧とぜんぜん寛容でない東欧との差はとても大きい。少なくとも2018年の時点だと、エストニアでは同性愛者に寛容な人々は少数派だった。

出典:EVS/WVS (2022). European Values Study and World Values Survey: Joint EVS/WVS 2017-2022 Dataset (Joint EVS/WVS). JD Systems Institute & WVSA. Dataset Version 4.0.0, doi:10.14281/18241.21

出典:同上

 ところが、最近になって事情が変わり始めていたらしい。冒頭に貼ったHRWの記事でも紹介されている通り、今年の5月に行われた調査では、53%の国民が同性カップルの平等な結婚に賛成していたという。2012年の調査ではこれが賛成34%に反対60%だったというから、この10年ちょっとでかなりの変化があったことになる。したがって、議会によるこの決定もいちおう世論の多数派に沿っているわけだ。

 とはいえ、この場合は直接民主主義というよりも間接民主主義で、つまり国民投票ではなく議会の決定により決まったのだという点を忘れてはいけない。オーストラリアやスイスなどの場合は国民投票で多数派の賛成が得られたことが法制化をもたらしたが、エストニアの場合は議会政治を通じて達成されたわけだから、もちろん連立政権などの政局的な話が関わってくる。

 こうした世論の変化と法制化をどう解釈すべきだろうか? イングルハートらの議論に沿えば、解放的な価値が社会に広まるのは産業化と脱産業化のおかげだということになるが、この10年間のエストニアについてそういう経済的な観点からだけでは説明がつくとは思えない。もちろん、世代交代によりリベラルな人口が増えるほどの時間が経過したわけでもない。

 一つには、2016年のシヴィル・ユニオンの法制化が有効に働いたという仮説が立てられる。2018年(先述のEVSが行われた年)においてはまだその効果があまり出ていなかったとしても、7年経過すれば世論もポジティブな方に変わるかもしれない。つまり、同性カップルが結婚に近いユニオンを結べるようになったところで社会にこれといった悪い変化が起きなかったことが分かってきて、それで今度は結婚も認めてしまっていいだろうということになったという話だ。でもこれはまだ仮説だし、今度は2016年のシヴィル・ユニオン法制化(議会で決まったのは15年)がいったいどんな経緯で成立できたのかについても考えないといけない。その時も結構な苦労があったようだが、いかんせんエストニア語の文章にアクセスできないのでなかなか調べ切れていない。

 シヴィル・ユニオン以外のもう一つの重要な背景として、この国が置かれた国際的な位置もある。旧ソ連構成国だったエストニアは、2004年にEUNATOへ加盟して、それ以降EU(それに北欧諸国)との関係強化に努めてきたとされる。この国史上初の女性首相でもある現首相のカヤ・カッラス(2021-)も、おおむねこの路線を引き継いでいると言ってよさそうだ。彼女は中道右派の改革党所属だが、今年になって連立を変えて、社民党と新興リベラル政党の「エストニア200」との連立を組み始めた。このカッラス政権は対ロシア強硬派とも評されていて、実際に親EUかつ親ウクライナの姿勢を強く見せてきた。もしかしたら同性婚の法制化も、このEUの国家戦略と関わっているかもしれない。つまり、「もはやロシア側ではない」EU寄りのリベラルな国家であることを示すには、同性愛者の権利保障といったところから始めるのがよいだろうというわけだ。かたや件の侵略戦争が始まって以来のロシアでは、性的指向やジェンダーに関する表現を規制する通称「ゲイ・プロパガンダ法」(2013~)が強化されたりと、不穏な出来事が続いている。この状況だと、左右問わず政治リーダーたちが国家戦略としてリベラルな改革に重要性を見出すのはもちろん、市民社会の側も国際的な事情に影響されてよりリベラルになるかもしれない。

 カッラス自身は初めから法制化にかなり乗り気だったようだが、もともと中道右派だったはずの改革党の内部からはやはり反対の声も結構あったらしい。それでも、最終的には改革党議員のほとんどが賛成に票を投じた

 この法制化の原因についてはまだまだ調べる必要があるけど、それが他の国々に及ぼす影響についても気になるところだ。社民党党首で内務大臣を務めるラウリ・レーメネッツ(Lauri Läänemets)は、法制化のちょっと前、Politicoのインタビューにこう答えている

 

 他の国々における経験が明らかにしているのは、同性婚の法制定を採択すれば、同性婚に対する公衆の支持はかなり急速に伸び始めるだろうということです……カヤ・カッラスが彼女の党に対して、同性婚の権利にむけたおそらくより野心的な計画を支持するよう説得できるとすれば、それはエストニアにとってのみならず、より広い地域にとっても、意義深い決定(landmark decision)になるでしょう。

 

この見方はそこそこ納得のいくものだ。法制定の影響力についていえば、台湾でも、慌ただしい経緯で同性婚が法制化されたあと世論が好意的な方へと変わりつつある(これはまた今度書くつもり)。エストニアの件が持ちうる国際的な影響力についても、確かに注目すべきところだ。南アフリカは地域で一国だけ同性婚を認める国になったが、EUに所属する東欧諸国の場合は、これからどうなるかわからない。エストニアに続き同じような経緯で変わっていく国が今後も出てくるかもしれない。

Roberts「同性愛に対する世界的な態度の変化」

Roberts, L., 2019. "Changing worldwide attitudes toward homosexuality: The influence of global and region-specific cultures, 1981–2012" Social Science Research, 80, 114-131.

 

アブストラクトの和訳:

 多くの西欧諸国においては同性愛の容認が台頭してきた。だが、世界の他部分において態度が変化したのかどうか、あるいはなぜ変化したのかということについてはあまり分かっていない。ここでは、私はこれらの問いを探究するとともに、何が世界中の態度の変化を起こすのかについての三つの諸理論の相対的な有用性を検討する。三つの諸理論とは、(1)脱産業主義テーゼ、これは存在論的安心(existential security)を主な決定因に持ってくるもの。(2)世界社会理論、これはグローバル文化の普及がもつ影響力を強調するもの。(3)複数の近代理論(multiple modernities theory)、これは地域特有の文化的プログラムの効果を指摘するもの。私は、World Values SurveyとEuropean Values Survey(1981-2012)を統合したデータに基づいて、長期的なマルチレベル・デザインを用い、同性愛の社会的受容における世界的変化をモデル化する。世界社会理論のいう通り、結果は同性愛の需要における広い世界的な発展を示していて、それは主に好意的なグローバルな文化的メッセージの普及に起因していた。この結果は、グローバル文化が集合的な態度をグローバルに形作ってきたということの強力な証拠をもたらしている──もっとも、ここでの影響力はより宗教的な諸社会においてはより小さいということも分かったが。同時に、この分析は、諸国間における態度の隔たりが拡大していることを見出し、さらに、複数の近代理論の言う通り、これが部分的には地域特殊的な文化的プログラムのせいだということも示唆する。なお、脱産業主義テーゼとは対照的に、存在論的安心は態度に変化を与えはしなかったようだ。

 

 

 

 著者の博士論文がここで紹介されていたので、同じ人が書いたもののうち手軽に読めそうなものを見てみた。これは世界各国で同性愛への態度がなぜ、どのように変化してきたのかについての論文。アブストラクトにあるように、このテーマに関する三つの仮説をデータで検証するというものだ。その三つの仮説っていうのが、イングルハートらの脱産業化理論、ジョン・メイヤーらの世界社会理論、それに「複数の近代」理論だ。前の二つの理論に基づいた論文はこのテーマだとよくあるし、イングルハート自身も同性愛についていろいろ書いたりしてたが、最後のは何だろう。「複数の近代」というのはアイゼンシュタットとかがかなり前に言い始めた話で、要するに近代化といっても各地域に根付いた土着の文化が大きくかかわるのだから色々あるだろうということだ。同性愛の問題に関してこの種の議論をするなら、例えば「ムスリム世界やサブサハラ・アフリカ、それに旧ソ連・東側ブロックにおけるエリートの文化的かつ制度的な影響力が、これらの地域における同性愛へのネガティヴな社会的態度を促進するだろう」(p. 115)ということになる。まあ、だいたい予想のつくことではある。(もっとも、イングルハートにしたってこういう土着の文化の影響力はある程度認めていたと思うんだけど)

 世界文化の影響力を分析に組み込んでいるのだけど、そのためにKOFグローバル化指数などのデータを活用している。注釈によれば、世界文化理論の研究者たちの間でこのデータはなぜかあんまり使われてないらしいけど、なかなか便利そうだね。存在論的安心を図るためのデータは、世界銀行が出してる幼児死亡率とか、主要な政治暴力事件(Major Episodes of Political Violence)データベースとかいったもの。こうしたデータ選択が妥当なものかはわかんない。「地域特殊的な文化プログラム」を考慮に入れるにあたっては、諸国を七つのグループに分けている──西側(the West:西欧および北米)、ラテンアメリカとカリブ諸国、旧ソ連・東側ブロック、ムスリム世界、サブサハラ・アフリカ、南・東南アジア、東アジア。

 ともかくこの論文は、同性愛への態度に関する研究としては必読のものだろう。ただ、もちろんこれが同性愛関係の話の全てというわけではない。社会が同性愛に寛容であることと、同性愛者にとって望ましいような法制度(パートナーシップ制度や同性婚の容認)が整備されることとは別の問題だ。ここで使われてるWVSのデータ(wave6)は2012年までのものだけど、それ以降の十年のうちに、複数の中南米諸国で同性婚の法制化が進んだ。問題は、そのうち少なからぬ国々では同性愛への肯定的な態度があまり広まっていなかったということだ──これは、同性愛にかなり寛容な社会でありながら未だに同性婚を法制化してない日本とはある意味で反対の現象でもある。市民社会の側の態度があまり変わっていない国々で、なぜ法制化が決定したのか? 解放的になった市民社会からのインプットだけが法律を変えるわけではないとしたら、他にどんな要因があるのか? 僕はいまこの問題に取り組み始めているが、たぶんこのようにWVSなどのデータを活用するのはもちろん、比較政治制度論の観点も必要になってくるのだろう。まだまだ勉強だ。

ストーン、ワン「中国に対するトランプ政権の人権圧力キャンペーン」

Stone, J., and M., Wan, 2022, The Trump Administration’s Human Rights Pressure Campaign on China: How Cynics, Norms, and Social Construction Transformed US-China Relations, Human Rights Quarterly, 740-758.
 
 世界が米中関係に注目している。つい最近もバイデンが習近平を「独裁者」呼ばわりしたことが少し話題になった。こういうハードな対中外交は前政権時代に本格化したもので、トランプは大統領選の時から中国をあれこれ批判していた。共産党のスパイが送り込まれてくる、中国人がアメリカの技術を盗んでいる、アメリカを再び偉大にするには中国に対抗しなくてはならない! そう主張するときに、トランプは人権の概念を活用した。トランプと人権なんて、ほとんど水と油のようなものではないか? トランプ本人も、その取り巻きたちも、おそらく個人的には人権の理念にほとんどコミットしていなかっただろう。けれども、ともかく彼らは人権を有効に使って、結果として彼らのキャンペーンはそれなりに成功した。今やアメリカでもそれ以外の西側諸国でも、人権という語を用いて中国を批判し続けることはある種の規範的行為になっている。バイデンも中国に対する姿勢を和らげることはできそうにない。
 この論文も、概ねそういう話をしている。国際関係論の理論として面白いのは、トランプみたく人権の理念をロクに信じていない連中(non-believer)の行動もまた、国際人権の発展に寄与するのだと認めているところだ。そう認めることで、フィネモアとシッキンクなどの構築主義アプローチ*1を拡張することができる。一般に、人権規範の構築の出発点では、人権の概念を動員することで何かの目標を達成したい規範事業家(norm entrepreneur)が大きな役割を果たすのだけど、その事業家は必ずしも人権の理念を真剣に信じているとは限らないわけだ。
 著者たちがトランプたちの影響力を過大視しているところは少し引っかかる。別に、政権を得たかったトランプ以外にも、同じように中国を人権問題で批判することによって利益を得たい人々はいるだろうし、そういう人たちの全てがトランプにすすんで便乗わけでもないのではないか? とはいえ、中でも最も支持を集めたのが何だかんだ言ってトランプだったわけだし、まあ「その他大勢」を無視して彼に注目することはさしあたり正当化されるかもしれない。
 著者たちの見通しは、楽観的とも悲観的ともつかない微妙なものだが、まあ妥当に見える。例えば、次のように書いている。
 
 世界における民主政の後退を心配する人権活動家たちについて言うと、彼らはべつに絶望しなくたっていいし、少なくとも完全に絶望する必要はない。民主政を本当に信じているわけでもないがあえて人権をアジェンダに持ってくるような人々の行為選択によって、民主政の後退は部分的に埋め合わせられうる。人権のアジェンダは、信じる者たちと信じない者たちとの比率にのみ依存するわけではないのである(p. 756)。
 
 ここで人権と民主政(democracy)がほとんど同じものとして結び付けられているのは、中国の問題が念頭にある論考だから妥当なのかもしれない。細かい話をするなら、人権のなかでも消極的権利(言論の自由とか)を保障するのは民主政というよりリベラリズムの方じゃないか、みたいなことも言える。「非リベラルな民主政」の国々の人権問題を考えれば、この両者の区別は時に結構大事なのかもしれない。けどまあ、ここでの主なテーマは中国(全く民主的でない、専制的社会)の人権問題なわけだし、そういう話はあまり重要ではないか。

 私たちは皮肉な時代に生きている。民主制の政権と専制主義の政権の両方が、相対的な利益を得るためのそれぞれのアジェンダを促進するために人権を政治的資源として用いるような時代である。この論文が論じるのは、人権が社会的に構築されるものであり、そして「利己的な」事業家たちもまた[人権にかかわる]外交問題を形成するのだということである(p. 758)。

 

 確かに「皮肉な時代」と言いたくなるのだけれども、こうした現象は今に始まったことではないかもしれない。例えば、第二次大戦の後にアメリカとソ連が「人権」の語を用いながら互いの社会を批判しあっていたときにも、同じような仕組みが見られたのではないだろうか。筒井清輝さんが『人権と国家』でしていたのも、そういう話だったと思う。

 

 国際人権機構がここまで発達し、場合によっては主権国家の国内問題に介入することができるまでになったのはなぜか? それは(・・・)人権を国際競争の場で互いを批判する道具として使ったためにその概念的正当性を高めてしまった大国の誤算、そして冷戦下でリップサービスとして国際人権条約を批准して人権を否定できない価値にまで高めた多くの国家の行動などが、相対としてもたらした意図せざる結果による部分が大きいのである*2

 

 首相や大統領が他国の人権問題を威勢よく批判するとなると、普通に考えれば、自国における人権問題についても改善が求められることになるだろう。実際、アメリカで公民権法が成立した背景には、市民社会における熱心な運動だけでなく、国際関係上うまくやっていくための国家の戦略もあったわけだ。トランプは中国批判をするからといって別に国内の人権問題を気にした様子はないが、やはり散々な批判を向けられたし、再選されなかった理由の一つもそういう点にある。

 トランプと一緒に中国批判をしていた安倍さんは、もう少しうまくやったのだと思う。これも筒井氏が指摘していることだけど、長い第二次安倍政権のうちには、ヘイトスピーチ規制法、部落差別解消推進法、そして画期的なアイヌ新法──これによってようやく「先住民」としてのアイヌの地位が法律に明記された──など、いろんな人権関連の法が整備された。こうした一連の法整備も、安倍さんの「価値観外交」と表裏一体だと言える。彼がこうした問題にどれぐらい入れ込んでいたかは分からない(菅さんはアイヌ問題に対して個人的に熱心だったようだ)し、日本国内では安倍さんがリベラルな人だと言ったら馬鹿にされるかもしれない。けど、少なくとも、安倍政権が結果として日本と国際社会における人権規範の発展に寄与したということは認めてもいいだろう。

 

*1:Finnemore, M., and K., Sikkink, 1998, International Norm Dynamics and Political Change, International Organization, 52, 887-917.

*2:筒井清輝, 2022, 『人権と国家』岩波新書.これは、人権に関する社会科学の基礎文献となる名著だと思う。