Stone, J., and M., Wan, 2022, The Trump Administration’s Human Rights Pressure Campaign on China: How Cynics, Norms, and Social Construction Transformed US-China Relations, Human Rights Quarterly, 740-758.
世界が米中関係に注目している。つい最近もバイデンが
習近平を「独裁者」呼ばわりしたことが少し話題になった。こういうハードな対中外交は前政権時代に本格化したもので、トランプは大統領選の時から中国をあれこれ批判していた。
共産党のスパイが送り込まれてくる、中国人が
アメリカの技術を盗んでいる、
アメリカを再び偉大にするには中国に対抗しなくてはならない! そう主張するときに、トランプは人権の概念を活用した。トランプと人権なんて、ほとんど水と油のようなものではないか? トランプ本人も、その取り巻きたちも、おそらく個人的には人権の理念にほとんどコミットしていなかっただろう。けれども、ともかく彼らは人権を有効に使って、結果として彼らのキャンペーンはそれなりに成功した。今や
アメリカでもそれ以外の西側諸国でも、人権という語を用いて中国を批判し続けることはある種の規範的行為になっている。バイデンも中国に対する姿勢を和らげることはできそうにない。
この論文も、概ねそういう話をしている。国際関係論の理論として面白いのは、トランプみたく人権の理念をロクに信じていない連中(non-believer)の行動もまた、国際人権の発展に寄与するのだと認めているところだ。そう認めることで、フィネモアとシッキンクなどの
構築主義アプローチ
*1を拡張することができる。一般に、人権規範の構築の出発点では、人権の概念を動員することで何かの目標を達成したい規範事業家(norm entrepreneur)が大きな役割を果たすのだけど、その事業家は必ずしも人権の理念を真剣に信じているとは限らないわけだ。
著者たちがトランプたちの影響力を過大視しているところは少し引っかかる。別に、政権を得たかったトランプ以外にも、同じように中国を人権問題で批判することによって利益を得たい人々はいるだろうし、そういう人たちの全てがトランプにすすんで便乗わけでもないのではないか? とはいえ、中でも最も支持を集めたのが何だかんだ言ってトランプだったわけだし、まあ「その他大勢」を無視して彼に注目することはさしあたり正当化されるかもしれない。
著者たちの見通しは、楽観的とも悲観的ともつかない微妙なものだが、まあ妥当に見える。例えば、次のように書いている。
世界における民主政の後退を心配する人権活動家たちについて言うと、彼らはべつに絶望しなくたっていいし、少なくとも完全に絶望する必要はない。民主政を本当に信じているわけでもないがあえて人権を
アジェンダに持ってくるような人々の行為選択によって、民主政の後退は部分的に埋め合わせられうる。人権の
アジェンダは、信じる者たちと信じない者たちとの比率にのみ依存するわけではないのである(p. 756)。
ここで人権と民主政(democracy)がほとんど同じものとして結び付けられているのは、中国の問題が念頭にある論考だから妥当なのかもしれない。細かい話をするなら、人権のなかでも消極的権利(
言論の自由とか)を保障するのは民主政というより
リベラリズムの方じゃないか、みたいなことも言える。「非リベラルな民主政」の国々の人権問題を考えれば、この両者の区別は時に結構大事なのかもしれない。けどまあ、ここでの主なテーマは中国(全く民主的でない、
専制的社会)の人権問題なわけだし、そういう話はあまり重要ではないか。
私たちは皮肉な時代に生きている。民主制の政権と専制主義の政権の両方が、相対的な利益を得るためのそれぞれのアジェンダを促進するために人権を政治的資源として用いるような時代である。この論文が論じるのは、人権が社会的に構築されるものであり、そして「利己的な」事業家たちもまた[人権にかかわる]外交問題を形成するのだということである(p. 758)。
確かに「皮肉な時代」と言いたくなるのだけれども、こうした現象は今に始まったことではないかもしれない。例えば、第二次大戦の後にアメリカとソ連が「人権」の語を用いながら互いの社会を批判しあっていたときにも、同じような仕組みが見られたのではないだろうか。筒井清輝さんが『人権と国家』でしていたのも、そういう話だったと思う。
国際人権機構がここまで発達し、場合によっては主権国家の国内問題に介入することができるまでになったのはなぜか? それは(・・・)人権を国際競争の場で互いを批判する道具として使ったためにその概念的正当性を高めてしまった大国の誤算、そして冷戦下でリップサービスとして国際人権条約を批准して人権を否定できない価値にまで高めた多くの国家の行動などが、相対としてもたらした意図せざる結果による部分が大きいのである*2。
首相や大統領が他国の人権問題を威勢よく批判するとなると、普通に考えれば、自国における人権問題についても改善が求められることになるだろう。実際、アメリカで公民権法が成立した背景には、市民社会における熱心な運動だけでなく、国際関係上うまくやっていくための国家の戦略もあったわけだ。トランプは中国批判をするからといって別に国内の人権問題を気にした様子はないが、やはり散々な批判を向けられたし、再選されなかった理由の一つもそういう点にある。
トランプと一緒に中国批判をしていた安倍さんは、もう少しうまくやったのだと思う。これも筒井氏が指摘していることだけど、長い第二次安倍政権のうちには、ヘイトスピーチ規制法、部落差別解消推進法、そして画期的なアイヌ新法──これによってようやく「先住民」としてのアイヌの地位が法律に明記された──など、いろんな人権関連の法が整備された。こうした一連の法整備も、安倍さんの「価値観外交」と表裏一体だと言える。彼がこうした問題にどれぐらい入れ込んでいたかは分からない(菅さんはアイヌ問題に対して個人的に熱心だったようだ)し、日本国内では安倍さんがリベラルな人だと言ったら馬鹿にされるかもしれない。けど、少なくとも、安倍政権が結果として日本と国際社会における人権規範の発展に寄与したということは認めてもいいだろう。