世異則事異

大学院生 読んだ文献のメモとか

Kate Nash「人権の政治社会学にむけて」

Nash, Kate. 2012. "Towards a Political Sociology of Human Rights." in Edwin Amenta, Kate Nash, and Alan Scott (eds.) The Wiley-Blackwell Companinon to Political Sociology. Oxford: Blackwell. 444-453.

 

 The Wiley-Blackwell Companion to Political Sociologyに収録されている短い論考。なんか、あんまりまとまりのない文章。こういう本だから仕方ないかな? とりあえず、論点をいくつかメモする。

 著者のケイト・ナッシュロンドン大学教授の社会学者らしい。おそらくは人権、シティズンシップ、ジェンダーなどのテーマに取り組んできた人で、2015年にはこの論文とほとんど同じタイトルの『人権の政治社会学』という本をケンブリッジ大学出版局から出しているそうだ。

 著者によれば、人権は社会学者にとって長い間無視されてきたテーマだった。その一因はたぶん方法論的ナショナリズムにあって、つまり人権に関する国際規約とか国際機関とかいったものがそもそも分析に含まれないことが多かった。もちろん、グローバル化が騒がれ始めた90年代以降は状況が大きく変わった。もう一つの理由は、そもそも社会学という分野自体に文化的相対主義の傾向があること。(この点について著者は細かい議論をしていないが)確かに、社会学者から見れば道徳とか権利とかいったものは諸々の社会的要因(経済とか宗教とかいったもの)によって形成されるものだ。とりわけデュルケムはそのことを明示していて、『社会分業論』の第一版序文にはカントの普遍的な道徳の概念をバカにするくだりがあった。実際、規範も権利もそれぞれの社会ごとに違っていて当然だし、「普遍的権利」なんてものを想定することは、社会学者の考え方にそぐわない。

 社会学者から見れば、全ての人権は「社会的」だ。法学の分野では、ゲオルグ・イェリネックが言い始めた「消極的権利」と「積極的権利」という二分法がある。これは、アイザイア・バーリンのもっと有名な「消極的自由」と「積極的自由」と似たような区別だ。要するに、「~されない権利」(殺されない、奪われない権利、弾圧されない権利)と「~する権利」(給付を受ける権利、きれいな水を飲む権利、まともな教育を受ける権利・・・)とを分けて考えようということ。古典的なリベラリズムが前者を擁護してきたのに対し、多文化主義アファーマティブ・アクションを支持する現代のリベラルは後者にこだわっていると言えそうだ。この二分法を受け入れるとしたら、国連のB規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)は消極的権利に含まれ、A規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約)は積極的権利に含まれると見なせるだろう。でも、こういう区別は誤解を招くものだ。だって、いわゆる消極的権利を保障するためにも、多大な投資と組織化が必要だからだ。治安を守るためにはよく訓練された警察が各地に配置されなければならないし、その警察もまたよく管理されていなければならないし、貧乏な被告人でも公平な裁判を受ける権利がある。「豊かで合理的にうまく機能しているような自由民主制諸国においてさえ、諸権利の保障には、十分に資金のある、専門的で士気の高い人権諸組織による恒常的な警戒が必要である」(p. 446)。「新しい人権」とか言われることを思えば人権が社会的に構築されるものであることは明らかだが、人権の維持もまた社会的になされているわけだ。

 社会学者の役割は、「実践において人権に対するリスペクトを確かにしうるような特定の歴史的、文化的そして地政学的な諸条件を探究すること」(ibid.)だ。人権は社会的に構築され、また社会的に維持されるものである。

 人権はグローバル化しつつある。人権というのは人間が人間であるだけで持っている権利であるから普遍的なものなのだ……と言うのは形式的な話で、実際のところ人権が普遍的に保障されているわけでないのは明らかだ。それだから、人権のグローバル化という現象もありうる。たぶん、どんな国家のアクターも人権を尊重しているように見せかける必要性を感じている。でも、それで国家が弱められていると論じるのは早計だ。人権に関する国際規約にサインするのは国家の代表たちなのだし、本当にイヤならサインしないという選択肢もある。

 ジョン・メイヤーなど「世界社会理論」の一派が論じるように、人権条約などにサインして人権問題にとりくむ(あるいは、取り組む姿勢を見せる)ことは、「世界文化」への適応と見なせる。でも、メイヤーも認めている通り、それは実践を伴うとは限らない。Hafner-Burton and Tsutsuiの統計的分析によれば、各国における人権に関する国際条約の批准は、それぞれの国における人権問題の改善をもたらすどころか、むしろ悪化を伴う傾向にあった。どうやら、当該国家がグローバルな市民社会とよく結びついていたり、あるいは国際NGOから国家エリートに向けた人権規範順守への圧力が強かったりという状況でなければ、人権条約などはなかなか効力を持たないらしい。

 「効果的な圧力は、市民社会の諸行為者から来るだけでなく、他の諸国家から来ることもある」(p. 448)。国連人権委員会では、各国の代表が参加国それぞれの人権問題について勧告していたりする。あれだけで十分とは思えないが、欧州人権裁判所や環アメリカ人権裁判所みたいに大陸レベルの司法機関からの勧告は結構影響力を持っているように思われる。「外圧」で変わるのは何も日本だけじゃないわけだ。

 「国際人権法は、国家の異なる諸部門(branches)の間の力のバランスを変えるときもある」(p. 449)。アメリカの、少年に対する死刑の廃止の事例が紹介されている。2005年にアメリカの最高裁は、少年に対する死刑なんてもう世界中のどの国家もやっていない(少なくとも公に支持してはいない)のだから廃止すべきだと言った。国際慣習法(customary international law)からこういう議論が引き出されたわけだけど、国内では当然反発もあった。だって、これって民主的なのか? 選挙で選ばれた国民の代表じゃなくて、裁判官が決めていいわけ? こんな感じで、国際人権規範の影響と国民主権の問題との複雑な関係はよくある話らしい。もっとも、アメリカのように司法が議会と関係なしに人権問題にとりくむという現象は、とりあえず司法の独立性がある程度強い国々でなければ中々起こらない現象だと思う。

 人権が実現されるには、(国際的な?)法の支配を受ける官僚制国家があるだけでもダメで、資金のある人権組織があるだけでもダメ。それだけじゃなくて、人権が大事なものとして受け入れられている必要がある。「必要なのは『心』(hearts and minds)における変化であって、国家の役人たちからTV視聴者、投票者、納税者にいたるまで社会全体で人権の価値と重要性が認められていることである。」(p. 451)。人権が大事だと思われていることだけではなくて、人権とはいったい何なのか、どんな権利が大事なのかということについても「相互主観的な」理解がなければならない、とも言っている。このように、「人権の実現のために必要な法律外の(extra-legal)諸条件」を、筆者は「人権文化」と呼んでいる。(なんかH.L.A.ハートも結構似たような話をしていたと思うけどね。)この人権文化の度合いというものは、イングルハートらの社会調査みたいなデータである程度実証的に見ることができるのかもしれない。

 まあ人権文化が大事だというのはそうなんだけど、結局のところ何が大事な人権であるのかという点こそが論争になっているのだろう。世の中には中絶する権利は人権の一つだと言う人もいる(逆に生まれてくるはずの子供の人権の侵害だと言う人もいる)し、同性婚をする権利は人権として認められるべきだと言う人もいる。

 あんまりまとまりのない論考だけど、とりあえず人権の社会学における理論的な論点は一通り触れられている……たぶん。